自分が自分で「ある」ということ


文責 赤木智弘(東天王ヨブ)

 俺はずいぶん長い間「自分が自分で「ある」ということ」を勘違いしてきた。
 実のところこの言葉は「自分は自分で「しかない」」とするのがどうやら正しいらしい。
 いわば諦念なんだな。
 とはいえ「あきらめ」ではないんだ。
 だって、根本的にそうでしかあり得ないわけだから。
 本質を理解しただけのことだ。

 そもそも、俺がこの言葉をどういうふうに勘違いしていたかというと、
 「自分は自分で「ある」んだから、自分はいかようにも変わることができる」と考えていた。
 いや、それだと正しくないな。
 正確には「大は小を兼ねる」と思っていたんだ。
 つまり、自分はバカではないけれど、バカをよく知っているから、バカになることはできる。
 そう考えていた。
 ところが本当は「大は大のまま」なんだ。
 「大は小ではないし、小は大ではない」
 こんな単純なことだけど、大は切れば小になれるような錯覚があったわけ。
 でも、実際は切れないわけだよ。
 「死にたい」といってもなかなか死ねないように、自分を「切る」こともなかなかできないわけ。
 だってそれは「精神的な自殺」なんだからね。
 大はそれが「大であるところに自己を規定する」んであって、小のように「他所に自己を規定する」ことはできないんだ。
 もちろん逆に小は大のように自我に自己を規定することはできない。
 結局のところ、いったん自己を規定してしまったところから抜け出すということは不可能に近い。
 たとえば、いじめの問題にしたって、社会は生徒の自我を学校という母集団にしか規定することを許さないにもかかわらず、そこにいることが許されないという矛盾の中で苦しむのであって、少なくともいじめられた側の個人的な問題ではないわけ。
 だから、いじめられた側が学校に行かなくなるというのは、学校に縛り付けられた自我を自分の中に取り戻そうとする、非常に苦しい作業をしているのであり、そういう状態になんら支援をせずに「学校に行け」だの「やられたらやり返せ」なんて言っている奴を「気楽でいいな」なんて思うわけだ。
 まぁ、別にここでいじめ問題を批評しようってわけじゃないので、この話はやめておくが、つまりは「精神の自殺」というのは、よっぽど自分が「そうするほかない」状況に陥らないかぎりは行われないんだ。
 だから、自分が「この方がいいかな?」と思うくらいでは大は小になれない。

 つまり、どういうことかといえば、結局は「自分は自分で「ある」でしかありえない」んであって、それが人間の本質だって事。
 だから「そうで「ある」自分」と付き合っていくしかないんだが、それは決して「諦念」ではなくて「観念」なんだ。
(広辞苑を引いたら、どっちもおんなじような意味(「道理を知る」と「あきらめる」が同居している)なんだけど、ここでは文字面から、「諦念」を「あきらめ」、「観念」を「道理」というように使っています。あしからず)
 これを悟ることは「こうであったらいいな」という幻想に浸って自己を見失わないためにとっても重要な、そして自己を確執して次に踏み出すために重要な、そういうものであると俺は考える。


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