BEMANIコミュニティーの持つ
「否定性」について


文責 赤木智弘(東天王ポチ)

 BM4thが発売されてから、多少の時間が経ちました。
 個人的な感想としては、曲調も好きなのでかなりいい評価をしているのですが、ネット上の掲示板などでは全体的に「否定的な」意見が目立っています。
 ただ、私はその「否定的な」な部分が正当な評価ではなくて(曲がどうのだの、画像がどうのといった、主観的な否定しようと思えばいくらでも自由に否定できるところばっかり)、何らかの別の意図を内包した物のように感じています。
 そこで今日はその「何らかの別の意図」とは何なのかを探ってみましょう。

 まず、この話での主題となるのが「BEMANIシリーズにおけるコミュニティ(以下「BMコミュニティ」と記す)」です。

 一通り解説をしておきますと、単純に言えば「一緒にゲームをする仲間」の事です。
 このような集団は、これまでも従来の格ゲーなどのいわゆる「流行物」のゲームに存在したのですが、今までのそれよりはずっとゲームそのものよりも集団としてのコミュニケーションにシフトした集団形成が特徴となっています。
 これに関してはもともと初期のコミュニティ形成のメンバーが従来のゲーマーとは違う「大形筐体物好き」ということで、よりコミュニティを必要とした(大形筐体物はゲーム誌でも一部を除き、攻略などのデータが少ないため、極めようとすればどうしてもコミュニティが必要不可欠となる)という点が大きく関わっていると考えられます。
 主な集団形成状態を挙げておきますと、まずはネット上における掲示板のページ単位における結びつき、ゲームセンター単位の結びつき。そしてD2Rにおける「○○組」といった地域単位での結びつきなどが挙げられます。

 さて、これらのBMコミュニティは最初は譜面データや効率的な攻略法などの、他のゲームにもありがちな「情報交換」のためのコミュニティだったわけです。ところがこれが「集団としてのコミュニケーションにシフトした集団形成」と変化していきました。
 これについての要因は「一般人の流入」であると考えられます。
 BMシリーズは大形筐体であるために、ある種の華やかさ(通常の筐体と比べて)があります。そして、華やかさだけではなくて、ゲーマーをも巻き込みうるゲーム性の良さを同時に持っていました。
 まず最初にゲーム性のよさがゲーマーを引き付け、その結果インカム(ゲームのコイン投入量のこと)が増える。インカムが増えれば筐体の寿命が増える(最近は1カ月持てばいい方)。するとそのロングライフぶり(前から気になっているけど、なんだろうという感覚を呼ぶ)と、華やかさが一般人の流入を呼ぶわけです。
 つまり、「情報交換」のところにいわゆる「一般人」が流入(地域単位やゲーセン単位では流入しづらいかも知れないが、ページ単位での流入は容易である)したことにより、コミュニケーションの効率化(情報交換だけではなくて、友達関係も取り入れたということ)が起こったのです。

 まぁ、ゲームコミュニティの効率化はしばらく前から少しずつ起こっている事ではあるのですが、「一般人の流入」により、それがより加速化された物が現在のBMコミュニティであるというわけです。
(あとは「一般人の流入による女性プレイヤーの増加」ということも挙げられるのですが、かなり邪推に近くなってしまうのでここでは掘り下げないでおきます。ちなみに私は「女性目当て」を肯定します)


 さて、それではコミュニケーションの効率化によりコミュニティにシフトした「BMコミュニティ」と「別の意図を内包した否定的な意見」とはどういう関係があるのでしょうか。

 まず押さえておくべき概念として「優先度」という物があります。
 これは「あなた!!家庭と仕事のどっちが大事なの!!」ということです。
 通常「ゲームを基にしたコミュニティ」であるならば、当然コミュニティそのものよりも、ゲームそのものの方が大切だということになります。ところがBMコミュニティはコミュニティにシフトしているわけですから「ゲームよりもコミュニティの方が大事」ということになるわけです。
 こうやって2者を対応させて考えれば非常に簡単に分かることなんですが、これ、実は当人達は全く気づいてないのです。
 つまりBMコミュニティの内部のゲーマー層(一般人層ではない)の人たちは自分たちは「ゲームの方が大事なはずだ」だと思い込んでいるわけです。

 で、そんな状態の中、BEMANIシリーズというものが非常にマニアック化してくる事態が起きました。
 この事態とは「BM2ndから3rdへの移行(compから4thも同様)」、D2Rにおける「マニアックの存在」、「2ndへの移行」です。
 これによりゲームそのものが厳しい物に、もしくは音楽が非常にコアな物になりました。

 これに対し、本来の「ゲームを基にしたコミュニティ」であれば、反論もあるでしょうが、それと同程度の賛成も存在し、そのゲームをやめる人、続ける人が別れる事になります。そして、そのことは特には問題にならないのです。単純にそれは「ゲームの変化」として受け入れられるからです。
 ところが、BMコミュニティの場合「そのゲームをやめる人、続ける人が別れる事」というのが大問題なのです。これは端的に「コミュニケーションの崩壊」を意味します。そして難易度の上昇があれば、今までよりも新しい一般人の流入(すでにゲーマーは一通り入り込んでしまっているため)を期待することが難しくなります。
 そこで、新作に対してまず「否定的な感情」を持つわけです。

 さて、ここで注意すべきなのは「否定的な感情」を持つのが「ゲームの方が大事なはずだと思い込んでいるゲーマー層」であるということです。
 コミュニケーションを基にしながらも、ゲームそのものから離れられないために本人達の内部は非常に困惑した状態になります。
 そこで彼らは「ゲームそのものを維持しながら、BMコミュニティを保持すること」という非常にアクロバティックな荒技を試みようとするわけです。
 すると、まず「コミュニティ」は固定なわけですからいじれません。ゲームだってコナミから提供されるものですから、いじるわけにはいきません。そこで発生するのが「ゲームに対する否定的な文句」なのです。そして、彼らはそれを「ゲームが大事だから意見をしている」と思い込んでいるわけです。
 簡潔にします。ベースは「BMコミュニティの保持」です。そこに必要なのが「ゲームそのものの維持」です。「ゲームの変化=コミュニティの変化」であることを考えれば当然「BMコミュニティの保持=ゲームそのものの維持」ということになります。そこで「ゲームが変化したことに対する文句」が発生するわけですが、当人達の中ではそれは「そのゲームに対する意見」ということに変換されてしまうのです。
 そして、それは一人ではなくて、コミュニティに所属するゲーマーのほとんどがそう考えているため、それらはネット上によって、必要以上の大音量となります。
 そうなると文句を言うことが「BMコミュニティの保持」であるのと同時に、「BMコミュニティの拡大」に繋がってくるのです。つまり、個々のコミュニティの相互関係が起こってくるのです。そのために本来「保持の手段」として消極的に文句を言っていたものが、「拡大の手段」として、積極的に文句を言うこととなってしまっています。

 本来これは「ゲームの評価、評論」とは全く次元の違うものであることを理解しておく必要があるのですが、どちらもごちゃまぜにされてしまっている(「ゲームの批評」という文化が成熟していないため)のが現状です。
 こういった状況は、なまじメーカー側がユーザの意見を取り入れようとした場合にゲームの発展性を失わせる結果となります。

 以上のことから、BMコミュニケーションそのものは否定しませんが、そういった打算を伴った文句は勘弁して欲しいなぁ。というのが私の考えです。


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