『「脳科学」化社会』(未完成稿)

(赤木智弘)

はじまりは「ゲーム脳」だったはずだ。

 2004年の大晦日を翌日に控えたあの日、あるデパートの書店の前を通りがかった時に面白いものが目についた。
 通路に面した書棚に、脳関連の本がずらっと並んでいるのだ。さながら「脳フェア」といったところか。
 本のタイトルをざっとあげてみると、『脳が若返る100のコツ』『脳が若々しい人老けやすい人』『百人一首で脳を鍛える方法』『和田秀樹の全脳トレーニング』『左脳を鍛える大人の迷路』『右脳を鍛える言葉の迷路』『脳を鍛える記憶術』『大人の脳を活性化 名作音読ドリル』『川島隆太の自分の脳を自分で育てる』『脳を鍛える即効トレーニング』『5分間活脳法』『大人から子供まで毎日続ける脳力日記帳』『大人から子供まで脳力を鍛える音読練習帳』まだまだあるが、きりがない。
 タイトルからしても分かるように、これらの本は脳研究の専門家に向けた医学書ではなく、一般の人に向けた脳の本である。

 「脳」がこんなに流行っているのか……。

 そこで感じた感慨深さは、決して肯定的な感情ではない。
 「脳科学によって、貶められているモノがある」
 その事を、ある一件以来、常に考えてきた私にとって、このような脳情報の氾濫は、見るに耐えないものだった。

 ブラックボックスであった脳の仕組みが詳しく解明されるようになったのは、極めてごく最近の事である。
 以前の脳研究といえばもっぱら「解剖」という行為が中心であった。なぜなら、解剖しなければ脳が見えなかったからである。
 解剖学者として知られる、元東京大学教授の養老孟司は、『脳の中の過程』(哲学書房 1986)の中で、「20世紀は解剖学を「死体解剖学」であると悪口する」と記している。
 解剖するには、それが死体でなければならず(生きたまま解剖したっていいが、解剖の過程で死体になる)、生きた脳の動きを観察することはできなかった。
 それがCTスキャンやMRI、PETといった技術が発達することによって、生きたままの人間の脳を、つぶさに観察することができるようになった。
 そして脳科学は「最新の脳科学」にあふれるようになった。

 けれども、「最新の脳科学」はあくまでも「最新」なのであり、決して多角的な視点をもって、実証された科学ではない。いわば「枯れていない科学」であり、その内容には眉唾なものが多く含まれる。
 しかし、そのような実情には触れず、脳科学は我々のような科学リテラシーを持たない一般市民の前に絶対的な存在として姿を現す。
 そして、さまざまな人の思惑とともに、脳科学はねじ曲げられ、利用される。

 私がそんなことを痛感したのは、2002年のことである。

『ゲーム脳の恐怖』の恐怖

 「やれやれ、またか」
 それが「ゲーム脳」という言葉に初めて出会ったときの印象だった。
 2002年7月8日の毎日新聞夕刊1面に「ゲーム脳」という文字が踊り、10日にNHK出版からゲーム脳という言葉の生みの親、森昭雄の著書『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版 2002)が発売された。
 新聞記事を見るに「ゲーム脳」とは、人間らしい感情をつかさどる、大脳の前頭前野という場所の活動が、TVゲームをしているときに低下するのだという。そして、TVゲームを長時間しているほど、前頭前野の活動レベルが慢性的に低くなるというものらしい。
 つまり、このことから当時流行していた「キレる」といった行動の原因をTVゲームのやりすぎに求めることができるという。

 だが、私は初めにこの言葉を聞いた時には、鼻で笑う以外のことをしなかった。
 なぜなら、こうしたTVゲームに対するいいかげんな言説は、我々にとっては「よくある話」でしかなかったからだ。
 TVゲームや漫画、それからホラーやオカルト関連といった、オタクカルチャーは、1988から89年にかけて起こった「宮崎勤事件」以降、常に風評の的にされ続けてきた。
 さも漫画やアニメやホラービデオ、そしてTVゲームいったオタクカルチャーが宮崎を殺人鬼に仕立てあげたかのような、相関関係と因果関係の区別すらしない、感情的な報道が相次ぎ、市民団体は「うちの子供が殺人鬼になっては大変!」と、有害マンガ(アダルトマンガ)の規制を求めた。揚げ句の果てには、TVリポーターが89年夏のコミケット(日本最大の同人誌即売会)の会場前で「ここに10万人の宮崎勤がいます」などと名誉毀損どころではすまないことを言ってのけた。
 そのうちに、表面的には感情的批判は下火になるものの、オタクと猟奇犯罪のイメージはわかちがたく結びつき、今では確固たるものになってしまっている。
 こうした状況の中で、「ゲーム脳」などと言われたって、「いまさら」感が強いのもやむなしといえよう。
 ただ、今回の場合は「科学的な根拠」が存在することが、今までの批判となんとなく違った気はしてはいた。
 けれども、ネット上を見回しても「ゲーム脳は根拠なし」といった意見が多数であったし、同じくネット上であるが、精神科医である斎藤環の的確な批判などもあり、いずれ消えていく言葉であろうと、当時はその程度に考えていた。

 たしかに今、当時に比べればゲーム脳という言葉自体を聞くことは少なくなった。つい先日発売された『ゲーム脳の恐怖』の続編となる森の『ITに殺される子どもたち』という本がそれほど売れたとも聞いていない。
 しかし、それにも関らずTVゲームというメディアに対する批判は絶えることがなく、いまだにTVゲームは子供にとって有害であると信じている人は少なくない。それどころか文部科学省がTVゲームの悪影響を調べた報告書を作成するなど、むしろ「ゲーム脳」という言葉がはやっていた頃よりTVゲーム悪影響論の定説化が進んだ印象を受ける。
 森は脳科学の専門家として、全国各地の市民団体や大学の講演に出演、TVのニュース番組などにも顔を出し、ゲーム脳を広め続けている。
 その一方、我々ゲーマー側の「対ゲーム脳理論」は決してネットの中を出ることはないし、ゲーム業界側の振興団体である社団法人CESA(コンピュ−タエンタ−テインメント協会 以下CESA)も、「ゲームソフトが人間に与える影響に関する調査報告書」などの調査報告書を出してはいるが、こうした言説が社会に伝わっているとは言い難い。
 たまに週刊誌などに斎藤環や香山リカといった科学者たちの、対ゲーム脳理論が出たりはするものの、そこからTVゲームに対する正しい理解が広まるようすは見られない。
 いったい、どうしてゲーム脳理論はこれほどまでに人々に受け入れられ、浸透したのであろうか?
 そのことを考えたいのだが、まずはゲーム脳理論とそれに対する反論をを一通り理解しておこう。

 森のゲーム脳理論とは、どのような理論なのか。
 ゲーム脳理論の根幹は「テレビゲームをしている人の脳波が変化する」ことにある。
 その変化とは「前頭前野の働きが低下して行き、β波の出現状態がα波のレベルまで低下してくる」ということである。そして「β/α」の値が低くなればなるほど、問題であるという。,
 つまり、TVゲームのプレイ中にβ波の働き(前頭前野の働き)が悪くなることを問題にし、これが慢性化した状態を「ゲーム脳」と呼んでいる。そして、この状態は高齢の痴呆者と同じ脳波傾向だという。
 なるほど、確かに子供が痴呆化しては大変である。この理論が世間の親たちに衝撃を与えたのは当然であろうし、TVゲームを子供から取り上げるのも致し方ないことではある。
 ただ、それはこの理論が正しければの話だ。
 この新聞発表の2日後に書店に並んだ『ゲーム脳の恐怖』を読むと、理論のほころびが見えてくる。

 森はTVゲームはβ波の出現状態は低下するので、脳に良くないと言うのだが、脳機能を良くするためにと、森が推薦する「運動」においても、実はβ波の出現状態は低下している。
 『ゲーム脳の恐怖』p.24にTVゲームをしている時の脳波が載っており、同書p.124にウォーキングした時のグラフが載っているのだが、これが程度の差さえあれど、TVゲーム、運動のどちらでも、その最中にはβ波の出現状態が低下し、終了後には元の値にまで戻っている。これのうち前者を「ゲームを始めてすぐに、β波が下がっています」。とし、後者を「運動をした後、グッとβパーセント(原文ママ)が増加しました」としている。同じ傾向のグラフで結論が2つあるのは、恣意的な解釈をしている証拠と言える。
 同じような恣意的解釈は、p.104-108でも見られる。ここではその他のTVゲームと違って、β波が増大した「ホラーアクションアドベンチャーゲーム(以下ホラーアクションAVG)」(文中では「ロールプレイングゲーム」と記されている)に対して、これはストレスで脳に過剰な負担がかかっている証拠なので、脳に良くないなどという。
 さらにその一方で、p.120-121ではダンスゲームは「β波が上がるから良い」という。ホラーアクションAVGとの違いは、ダンスはゲーム最中にはβ波が出現状態が低下し、終了後には上がり、ホラーアクションAVGの場合は、ゲーム中にもβ波が上がりっぱなしだということ。そしてこの前者を脳に良いとし、後者を悪いとしている。
 しかし、すでにお気づきのとおり、前者のβ波の動きは、ウォーキングやTVゲームをしている時のβ波の動きとまったく同じものであり、まったくTVゲームの脳への悪影響を肯定する材料になっていない。
 また、データの取得方法そのものにも問題がある。森は脳波を「ノーマル脳」「ビジュアル脳」「半ゲーム脳」「ゲーム脳」の4つに分類し、彼らがTVゲームをプレイした時のα波とβ波の関係を示すグラフを掲載(p.74-77)しているが、なぜかデータの取り方が一定ではない。
 ノーマル脳は測定開始から1分30秒後にTVゲームを始め、4分少々で終了している。ビジュアル脳は測定開始2分過ぎからTVゲームを始め、7分に終了。半ゲーム脳とゲーム脳はいずれも測定開始から1分後にTVゲームを始め、6分に終了。と、見事にバラバラだ。同条件で比較すべき実験で、このような条件のズレは測定結果に重大な影響を与えかねない。
 グラフ上に見える条件すら、これだけ違うというのだから、脳波を取る被験者の環境条件、つまり検査の場所や、プレイするTVゲームソフトといった事柄すら同一ではなかったのではないかと、つい勘繰ってしまう。
 また、痴呆と同じ脳は傾向だという話に関しても、痴呆とゲーム脳の脳波の状態が似ていたとしても、それで因果関係を証明した事にはならない。ゲーム脳のような状態が慢性化すると痴呆に繋がるということは、本の中でほのめかされてはいても、決して十分に検証されているとはいいがたい。ただ脳波の傾向が同じというだけに過ぎない。
 また、森自身がゲーム脳を調査するきっかけになったのは、「プログラマーの脳波をとったら痴呆者と同じ脳波を示した」ことから、「画面に向かっている時間が長いせいではないか」と推測したことであり、これなら「モニター脳」と名付けてもおかしくない。また後に森自身が「メール脳」(携帯メールをしすぎるとゲーム脳状態になる)という言葉を発表したように、決してゲーム脳はTVゲームだけに起因する現象ではない。ならば、ゲーム脳という名称自体の必然性がない。
 また、前述した精神科医の斎藤環が、大手オンライン書店、bk1(www.bk1.co.jp)の書評欄にこの本に対する詳細な批判を述べている。
 森の脳波に関する基本的な知識が謝りであること、森が開発したという簡易型脳波計の仕組みに対する疑問、そしてゲーム脳のキモでもある「痴呆ではβ/α値が低い」という解説が、決して痴呆臨床の立場から見て正当な説ではないということが説明されている。

 このような疑問は、『ゲーム脳の恐怖』が出版された直後から、何人もの人が繰り返し口にしてきた。当然、森にも届いているはずである。
 だが、この批判に対して森はほとんど、いや一切と言っていいが、答えていない。
 2004年7月に発売された『ITに殺される子どもたち』(講談社 2004)においても、これらの批判に答えるわけではなく、『ゲーム脳の恐怖』と同じ理論を繰り返すだけである。
 ちなみにこちらの『ITに殺される子どもたち』では、脳の活動をグラフィカルに表示するシステムを用いて脳の働きを見ている。
 携帯メールやパソコンでの読み書き、アニメ、漫画の視聴では、脳があまり働いておらず、紙への書き取りや読書、音楽鑑賞、そしてホタルを見ている時には、脳が活発に働くとし、前者は脳に悪く、後者は脳にいいとしている。つまり、脳全体が働けば働くほど「脳によい」と見ているわけだ。
 しかし、この見解も、最新の脳科学では危ういものとなっている。
 2005年、東京大学の酒井邦嘉助教授らが、ブローカ野の研究において、英語に対する習熟度が高ければ高いほど、ブローカー野の活動が「節約」されることを発見した。節約ということは「脳が働きが少ない」ということであり、習熟度が高ければ高いほど脳が活発に働かないことを示している。これは森の考え方とまったく逆の見解となる。
 また、1992年、カリフォルニア大学のHaier RJらによる研究では、「テトリス」という、アクションパズルゲームの金字塔ともいえるTVゲーム(森もこの「積み木合わせゲーム=テトリス」を被験者にプレイさせて脳波の測定を行っている)を用いて、脳のブドウ糖代謝のようすを測定した。
 するとこれも被験者がテトリスに慣れるにしたがって、ブドウ糖代謝が減少することを発見した。そしてこのことは、効率の悪いエリア利用の減少、つまり慣れにより「脳の働きが効率化」しているのではないかとの見解をしている。
 また、森と同じく、前頭前野を働かせることの重要性を訴える、東北大学の川島隆太教授は、『天才の創り方』(講談社インターナショナル 2004)の中で、暗算で複雑な計算をしている時には脳はほとんど活性化していないというデータを示している。これを森の見解にあてはめれば、毎日のように複雑な計算をしている学者も、TVゲームをしている子供と同じということになってしまう。ちなみに川島は同書の中で、ゲーム脳理論を「脳科学者には噴飯もののトンデモ理論」と切り捨てている。
 もちろんこれらも、森の研究と同じ、「1つの研究結果」でしかなく、ただちに森の見解を否定する材料にはならない。
 しかし、脳の活動が活発でないことを、単純に脳に悪いと断言することはできない。それだけは確かである。

 さて、ここまででゲーム脳理論を論破したとはいわないが、少なくとも鵜呑みにすることはできない理論であることは、伝わったと思う。
 しかし、こうした批判は先にも書いたように、なかなか外に伝わらない。
 では、どうしてこれだけの批判をされながら、「ゲーム脳」という言葉は生き残っているのだろうか?

なぜゲーム脳理論は受け入れられるのだろうか?

 2005年2月14日に大阪府寝屋川市の小学校で、卒業生の17歳の少年に教師が刺殺されるという事件が起った。
 そしてこの少年が小学校時代にTVゲームにハマっており、不登校気味であったことから、「TVゲームの悪影響なのではないか」という報道がさかんになされた。マスコミは大学教授などにコメントをとり、TVゲームの悪影響という見方を、公然化しようと躍起になっている(私にはそう見える)。もちろんその大学教授の中には森も含まれる。
 ニュースでは犯人らしき人物にわずかでもオタク的兆候があれば、それを犯罪との因果関係があるかのように報じる。記憶に新しい、奈良の幼女誘拐殺人事件では、犯人像がまったく特定されていないにもかかわらず、犯人とオタクを結びつける報道が相次ぎ、「犯人はフィギュア萌え族だ」などと煽りたてるジャーナリストまで出る始末であった。
 のちに浮かびあがった容疑者は、行きつけのスナックがあるなど、まったくオタクとは相反する要素を多く持った、ただのロリコンオヤジであった。
 しかし、マスコミはこれを「平成の宮崎勤事件」として報じたし、先のジャーナリストもフィギュア萌え族という誤った見解に対する訂正は行っていない。

 犯人に関する趣味嗜好がここまで詳細に報道されるのは、その趣味嗜好が犯罪に直接関係するものである場合と、これらのようなTVゲームやアニメ、フィギュアといったオタクメディアである場合のみである。
 たとえばタバコの常喫者が犯罪を犯しても、読売ジャイアンツの強烈なファンが犯罪を犯しても、部屋が本で埋めつくされるような活字マニアが犯罪を犯しても、決してそのことは報道されることがない。当然、「それらの悪影響で犯罪が起きたのではないか?」などという珍説が飛び出す余地はない。
 逆に考えれば、「犯人がオタクメディアにハマっていた」という報道がなされるならば、当然、ゲーム脳理論がマスコミによって受容される土台が存在するわけだ。
 ここにゲーム脳理論の需要の1つがある。

 では、マスコミはいつごろから犯罪と直接関係のないはずのオタクメディアを関係あるかのように扱うようになったのか。
 1988年から1989年にかけて、4人の少女が行方不明になった。
 「今田勇子」を名乗る犯人は、被害者宅にハガキや遺骨を届るなど、その行動がマスコミの興味を強烈に引きつけた。
 そして容疑者として逮捕された、宮崎勤の部屋にマスコミのカメラが入ると、そこに映し出されたのは大量のビデオテープや雑誌などの山であった。この、とても常人のものとは思えない部屋のようすは、その報道を見聞きした多くの一般視聴者に、きわめて強烈な「オタク」のイメージを植えつけた。(「オタク」という言葉自体も、この事件がきっかけとなって一般の人に広まった)
 このイメージから「オタクメディアの愛好者=犯罪予備軍」という見方が、マスコミと視聴者の間で共有されることとなった。
 つまり、「犯人がオタクメディアにハマっていた」という情報は、宮崎勤連続幼女誘拐殺人事件以降、「マスコミと視聴者の間で共有されるべき情報」ということになったのである。

 だが、ゲーム脳理論が受け入れられる原因はそれだけではない。
 なぜなら、決して宮崎勤以前に、オタクメディアに対する偏見がなかったわけではないからだ。
 たとえばインベーダーブームが過ぎ去った後のゲームセンターには「不良のたまり場」のイメージがあり、子供がゲームセンターに行くことを禁止していた学校や親は多い。
 確かに不良のたまり場と化していたゲームセンターもなかったわけではないが、ゲーム機が数台置いてあるような、不良がたまるような環境にない駄菓子屋すら目の敵にした人は少なくなかった。
 少なくともこの時期に、「ゲームセンターに行くことは不良の始まり」であるかのような価値観が、多くの人、特にPTAを始めとする教育関係者に共有されていた。
 そして1985年には、改正風俗営業法が施行され、ゲームセンターは風俗営業とみなされ、深夜営業の禁止など、さまざまな規制を受けることとなった。

 ここで注目したいのは、このゲームセンターへの批判という文脈の中で、すでに「ゲーム」そのものよりも「子供」という側面が強調されていることだ。「子供が不良になるので、もしくは不良がいて危険なので、ゲームセンターは良くない」という文脈の批判がされている。
 この点はゲーム脳理論も同じである。TVゲームをすることによって「子供の脳が痴呆化するので」TVゲームは良くないとしている。
 どちらも「子供にとって有害」という点で批判されているのである。
 ゲームセンターからTVゲームへ、批判の対象は変化したものの、「TVゲーム=子供に良くない」という理論は、スペースインベーダー以降、つまりTVゲームが一般に広まって以降「常に」なされている理論なのだ。

 では、TVゲームの何が具体的に危険視されているのだろうか?
 TVゲームの問題に関しては、モニターを見つめることにより、目を悪くする危険があったり、ゲームにお金を使うと子供の金づかいが荒くなるなどの細かな問題も確かにある。
 しかし、もっとも大きい問題は、TVゲームの出現によって、子供の「遊び」のパターンが大幅に変わったことではないかと考える。
 当時の子供の親たちの遊びは、鬼ごっこやかくれんぼ。木登りに三角ベースに、メンコやビー玉。オハジキにお人形遊びやおままごと、ゴムトビなどであった。
 もちろん時代によって変化はあれど、なんとなく「遊びのベースライン」が見えるような気がする。
 「気がする」というのは、あまりにいいかげんな物言いだが、子供の遊びとしてこれらが「健全」であることは認識できる。私の足りない想像力で「ベースライン」の中身を考えると、子供らしい「元気さ」や「無邪気さ」。女の子に向けては家事や子供の扱いという「女性らしさ」。こうしたイメージがベースラインであるように思う。
 そう考えると、TVゲームはこのラインから外れている。
 ただ、ゲームセンター全盛の時代は、「外」にゲームセンターや駄菓子屋があり、まだ「元気さ」は垣間見れるが、家でテレビに向かうTVゲームとなると、その元気さすら表面的には見られなくなる。
 TVゲームをする子供たちに対する不安を表す文章で「子供がテレビの画面を見つめて、となりの友達としゃべりもせずに黙々とTVゲームをしている」というものが多々見られるが、これはまさに子供の遊びにとってのベースラインである「元気さ」を親が見いだせていないということだ。

 しかし、子供が家でTVゲームばかりをするようになったのは、TVゲームのせいなのだろうか?
 今現在、私は自分がかつて育った地元に住んでいる。人口は確か8万人ぐらいだったか、それなりに家の立ち並ぶ「市」である。
 自分が子供のころは、よく道路を走り回って遊んだものである。足で走り回ったのもそうだが、自転車で友達と競走したりもしたのは、懐かしい思い出だ。
 しかし、今、そんなことをしたら、間違いなく子供は交通事故の犠牲になる。
 かつては一家に1台だった乗用車が、一人に1台といえるほどに増え、細い路地などにも入り込んでくる。
 昔住んでいた家のそばに1車線半程度の道があるのだが、昔はこの道沿いで良く遊んだものだ。しかし、今では大型ホームセンターの駐車場に繋がる道になっており、ひっきりなしに車がすれちがう道になってしまっている。
 また、かつては「子供の社交場」の代名詞であった、駄菓子屋が全滅している。
 私の実家がかつて駄菓子屋であったことはすでに述べたが、私の子供の頃には、子供が自転車で簡単に移動できる程度の範囲に、何軒もの駄菓子屋があった。しかし、一軒、また一軒と営業をやめていき、今残っている駄菓子屋は、私の知っている範囲では一軒もない。
 駄菓子屋だけではなく、プラモデル屋や、おもちゃ屋という、子供を相手にした店はほぼ全滅している。それどころか、市街地から店という店がことごとく消えている。これは別に私の地元だけの話ではなく、ごく一部の都市部を除く、日本のほとんどの場所でであろう。
 そして消えた個人商店の代わりに大型店舗が生活を支えるようになる、その大型店舗は、車での来客の都合のみを優先して、郊外の幹線道路沿いに作られる。
 こうした状況の中、TVゲームで遊ぶのは悪いと言う人たちは、車を持たない子供にどこで遊べと言うつもりなのか。市街地には車と民家しかないというのに。
 ここで都市計画の問題をやるつもりはないので、これ以上踏み込むことは避けるが、とにかく現在子供たちが表で元気よく遊べるような場所はほとんどないという現状はしっかり認識しておく必要がある。

 しかし、「子供が体を動かさないからゲーム脳になる」などという話の中では、そうした現実はなかなか省みられることはない。1つの実験の「科学的な言説」が、そういうふうにならざるをえない社会、という現実を覆い隠してしまっている。
 また現実を省みなくても、さもその問題を厳しく追求しているようなイメージが科学にはあるのではないか?

 古代エジプトの粘土版だったかパピルスだったかに「最近の若い者は」という愚痴が書かれていたという。本当かどうかは知らないけど。
 大人が子供の事を考える際に、どうしても「現在の子供」と「かつて自分が子供であった頃」を比較してしまう。そして、往々にしてその「かつて」は、子供時代の思い出とともに、過剰に美化される。そして新しい遊びはさかんに攻撃される。
 森世代の人たちは、自分たちが空き地などにみんなであつまって野球をしていたのを、健全な美しい思い出として持っているのではないか。しかし、その昔、「野球は脳に悪い」などと言われていたとしたらどうだろう?親に「脳に悪いから、野球なんてやめなさい」と言われたとしたら?
 なにもこの話、冗談やあてこすりで言っているわけではない。かつて確かに「野球は若者の健全な成長を阻害する」とか「野球は脳に悪い」と言われていた時代がある。

 1911年の8月29日から9月22日にかけての計22回、東京朝日新聞が「野球と其害毒」という連載を行った。
 さまざまな教育関係者や医学関係者を呼び、野球の「害毒」を書き連ねるのだが、その内容は「手の平への強い玉を受けるため、その振動が脳に伝わって脳の作用を遅鈍にさせる(松見順天中学校長)」「一校の名誉の為に是非勝たなければならぬと云う重い責任の感が日夜選手の脳を圧迫し甚だしく頭に影響する(金子魁一東大医科整形医局長)」などという、「TVゲームは親指ばかりを使うので、脳を活性化しない」とか「ロールプレイングゲームはストレスで脳に良くない」といった、ゲーム脳理論とほとんど同じような事が言われていたのである。
 脳以外でも、つい先日まで5,000円札の顔であった新渡戸稲造は「野球という遊戯は悪く言えば巾着きりの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れようベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである」とその非道徳さを嘆いているし、日露戦争の英雄として知られる、当時、学習院院長であった乃木希典は「対抗試合の如きは勝負に熱中したり、あまり長い時間を費やすなど弊害を伴う」として批難している。
 この当時、野球がブームになっていた。特に早慶戦は応援合戦も盛んで、1906年には応援が原因で試合が中止になるという事態になったほどであった。
 その後も、野球の試合での加熱した応援合戦はつづき、大学野球の選手の方も野球を続けるために浪人を繰り返す者まで出るしまつであった。
 そして、こうしたことの反動として、「野球と其害毒」という野球害悪論が生まれたのである。

 ゲーム脳論理と、野球害悪論を共通項を考えた場合、その非難がもっぱら教育的側面にあることに気付く。
 つまり、勉強が本分である学生が、TVゲームや野球にうつつをぬかすなど、とんでもないというわけだ。
 また、双方とも実質的には「学生(子供)のみ」を批難している事も忘れてはならない。
 野球害悪論については、その競技性が批判の対象という形にはなっているが、実際は野球の過剰ブームに対する非難である。しかし、そこでは野球ブームに一緒に酔狂した、大学地元のオジサンオバサンは非難されない。
 ゲーム脳論理も同じで、そもそも「TVゲーム」という対象自体に若者というバイアスがかかっているし、また『ゲーム脳の恐怖』の中で、森が開発した脳波計で脳波を取られ、研究に協力したにもかかわらず、キレるだの学業成績が悪いだの言われているのは、学生である。「お母さんたちは、子供をこんな学生にしないために、TVゲームを辞めさせなさい」というのが、森の主張だ。
 こうした特定の誰かを非難する論調は、非難されない側の人間にとっては、大変安心である。なぜなら、野球害悪論にしてもゲーム脳論理にしても、非難されるのは必ず「他人」だからだ。
 非難する側が野球やTVゲームに関心を持たない限り、これらの論を信じることによって、必ず一方的に他人を攻撃できる。
 非難の理論と実質の解離が大きいにも関らず、その理論が大々的に支持される場合、こうした非難による「快楽的側面」も大きいのではないかと考えられる。

科学は本当に客観的か

 ゲーム脳理論を支えるものに、その「科学性」がある。
 ゲーム脳という、脳科学のことを研究しているのだから、科学なのは当たり前である。
 しかし、科学といっても、それは即客観的な事実だということになるのだろうか?

 TVゲーム等のメディアと発育の関係を調査している、お茶の水女子大学教授の坂元章がWeb上で面白い発言をしている。

 ところが、「将棋のやり過ぎで、将棋をした子供が暴力的になった」という報告はありません。(nikkeibp.jp『規制より教育でゲームの悪影響を防げ!』

 しかし、本当に将棋のやりすぎで暴力的なることはないのだろうか? ただ単に報告が存在しないだけなのではないか?
 仮に、TVゲームと将棋を同程度やっている子供が暴力事件を起こしたら、メディア的にどちらの影響が大きいと感じるだろうか?
 それはもちろんTVゲームである。
 なぜなら将棋は良く知られ、なじみのあるゲームであるのに対し、TVゲームは犯罪の原因であると報道されるような胡散臭いものだからである。結局、TVゲームと将棋を同程度やっている子供の暴力事件は「TVゲームのやり過ぎで子供が暴力的になった」と報告されてしまう。
 ところで、将棋ということなら、森が『ゲーム脳の恐怖』の中でさらに面白いことを言っている。

 将棋ゲームではβ波の活性がやや高まる人も一部にはいました。これはゲーム脳人間タイプの人でした。ただしこれも慣れるとβ波が低下したままになってしまいます。考えなくても、ゲームができるようになるからでしょう。

 なんとこちらは将棋のやり過ぎでもゲーム脳になる可能性を示唆している。ゲーム脳理論で行くなら、実は将棋のやり過ぎで暴力的になった子供がいてもおかしくはない。
 『音読と計算で子供の脳は育つ』(二見書房 2003)では、東北大学の川島隆太教授がTVゲームでは脳が活発化していないというデータをとったうえで、こんな発言をしている。

 (TVゲームと)類似したものに、プロ級の囲碁や将棋の対戦では、頭のよさにかかわる前頭前野をほとんど使わないというデータが出ています。定石などを覚えたうえで、図形の認識パターンだけでやっているので、頭の後ろ半分の前頂葉という場所しかはたらかないのでしょう。

 ただし川島は森とは違って、「前頭前野を使わないから子供がキレやすくなる」という単純化はしていないということを補足しておく。
 ここで重要なのは、どっちが正しいか正しくないかではなく、実は「報告がない」というのは、研究自体が客観的態度によるものであると見せながら、実は報告という名前の「将棋では暴力的にならないだろう」「TVゲームなら暴力的になるかもしれない」という主観的判断からスタートしていることである。
 いわば、客観の仮面を被って主観の下支えをしている過ぎないのである。
 また、得られたデータについての解釈も、万人が同じ結論を出すものではなく、科学者の見方によって違った結論が出るのである。
 考えてみれば科学者自身だって、決して客観的な何かから科学者という仕事についたのではなく、自身の研究に対する興味や探求心から科学者になったのであり、科学は客観的であっても、科学者という人間自身の立場自体がまったく客観的ではないのは当然といえよう。しかし、我々は科学の名の前に、科学者そのものの立場を忘れがちになる。

 また、メディアと子供の発育の関係性というのなら、本来なら子供がかかわる「メディア」というもののすべてをとらえて研究すべきテーマであるにもかかわらず、テレビやTVゲーム、インターネットといった、あらかじめ「子供に悪影響を与えるであろうと考えられているメディア」に対する研究をばかりが行われているのがメディア研究の現状である。現に坂元が編者として参加した『メディアと人間の発達』の前書きで坂元は、

 本書は多くのメディアを扱うことになっているが、メディアの影響について、これだけ広い領域を網羅的に捉えた書物はあまり見られないであろう。

 と記しているが、この本で扱われているメディアは「テレビ」「TVゲーム」「インターネット」「ロボット」のわずか4種類でしかない。これを「広い領域」などとうそぶく坂元の姿勢には疑問を感じざるをえず、逆にいえば、この程度の領域が「広い」と称されてしまうほどに、メディア研究の幅が狭い現状を見て取ることができる。
 このような狭い領域から抜け出せないメディア研究から弾き出された結果は、いまだ客観的とは言い難いと思われる。

 思えば、森が「ゲーム脳」という言葉を使いだしたのも、「モニターに向かう時間の長さ」と「痴呆」の関係を推測し、これをTVゲームに適用したことがきっかけである。そして、この適用に科学的な必然性があったわけではない。
 だが、このTVゲームへの視点が『ゲーム脳の恐怖』という本の売り上げを劇的に延ばすことになる。子供がTVゲームをする姿、ひいてはTVゲームに対する素朴な不安は多くの親や教育関係者がもともともっていたモノだからである。マーケティング的視点でいえば、森はユーザーの需要をしっかりとすくい上げた。

 なんとなく「科学的根拠」というものは大変客観的で揺るがない事実であるかのように思い込んでいたが、どうもそうではなく、科学者自身のスタンスによる主観的な主張に近いもののようである。
 もちろん、数多くの研究が重ねられれば、研究結果は選別されて、客観的な正しさは実証されるのだろうが、TVゲームと脳の関係という研究分野は、いまだ研究結果が少なく、満足な選別がされていないのが現状のようだ。
 CESA事務局の町谷氏は、「「ゲーム脳報道」へのCESAの対処」というインタビューの中で、こう答えている。

 まず現状をご報告いたしますと、『ゲーム研究』自体が世界的にも圧倒的に少ない。  「ゲーム研究」を大項目と見立てた際に、大項目の中に「ゲーム影響論」が中項目として存在し、「“ゲーム脳”論」は中項目の更に内部、小項目と分類されるわけです。全体として圧倒的に少ない研究領域であるわけですから、この部分だけ先行・特化して議論が進むとは考えにくいわけです。これを根本から解消するためには『ゲーム研究』自体をもっと盛り上げていく必要があります。研究者が増えれば増えるほど『分類される項目』が増えますが、一定の数まで進めば、ある小項目について競合研究が進んできます。こうした状況下に進んではじめて議論の多面的な検証が進み、ようやく実態がわかってくるようになると思います。

 客観性というのは、科学研究が多面的に行われ、さまざまな議論、検証が行われたのちに、ようやく実証されるものである。科学は客観的だというのは、その実証がしったりなされる土壌が存在する分野においてのみ言えることだ。その過程を無視して「科学だから客観だ」などと言うことは決してできない。

教育と脳

 最近は、子供の教育に対して、脳の重要性が強調されることが多い。
 もちろん、この文章の主要なテーマの1つである「ゲーム脳」もそうだが、「ある程度成長すると脳が完成してしまい、柔軟性がなくなる」という脳の成長メカニズムに注目する早期教育も興味深い。
 「三つ子の魂、百まで」という常套句で始まるそれは、子供の脳味噌の成長がおおよそ3歳で止まるという「科学」を提示する。つまり、3歳までにしっかり勉強させようという、早期教育の考え方はこれを根拠にしている。
 また、「脳の臨界期」なるものを提言する人もいる。「だいたい8歳、遅くても12歳まで」というそれは、この年齢までに勉強をしないと、それ以降はなかなか知識が頭に入らないという、才能開花の限界時期を示している。
 こうした脳科学は、いずれも幼児教育産業のいい宣伝文句になっている。
 だが、その一方で、早期教育の翼賛は、成長してからの努力というものを否定してしまっている側面もある。たとえば外国語教育などは早期教育と親和性が高く、「子供に将来ネイティブな英語を使わせたければ、○歳までに英語を勉強させよう」と吹聴するコピーは、もはや英語教室の常套句となっている。
 成長してから母国語以外を発音するのが難しくなることを、ドイツ語訛りが強烈だったアメリカの元国務長官の名前をとって「キッシンジャー効果」と呼ぶそうだが、逆に見ればキッシンジャーは、ネイティブにはとうてい及ばないドイツ語訛りの英語で、アメリカの国務長官にまで上りつめたのであり、決してネイティブ同等の会話ができなくとも、コミュニケーションそのものにさしたる支障はないことを示してしまっている。もっともあちらは多民族国家なので、ネイティブではなくても、それほど違和感がないという事情もあるだろう。
 ここで重要なのは、単なる脳の成長が、子供の学習能力全般を決めると考えられてしまっていることだ。
 この時期に教育を行えば、脳が成長する時期なので、学習能力は飛躍的に成長する。しかし、この時期を逃してしまえば、子供の学習能力は成長せず、一生を棒に振りかねない。そう早期教育は脅迫する。
 そして、この早期教育をさせるのは、親の責任である。なぜなら、早期教育の対象は小学校低学年までの子供であり、少なくとも日本ではこのくらいの子供に対して自主的な判断を求めない。ならば当然「最新の脳科学に従った正しい教育」は親が子供を育てる上での責任となる。

 子供への教育が親の責任として、アカデミズムの分野で取りざたされたのが、心理学における「社会化研究」の分野である。
 「アヴァロンの野生児」という話を聞いたことがあるだろうか? 「カマラとアマラ」「オオカミに育てられた少女の話」と言った方が分かりやすいかもしれない。 信憑性については疑問視されることも多いが、ここではそれには触れない。
 概要としては、ある日、オオカミの巣からオオカミに続いて、2人少女が出てくるのが発見される。孤児院に収容され、育てられ、そこで十分な教育を受けるが、1人は早くに病気で死んでしまう。もう1人はある程度の会話はできるようになるが、同年代の子供とは比べればはるかに貧弱な語彙力しか持てず、結局若くして死んでしまった。という話である。
 この話は「幼い頃に人間の社会で育たないと、人間として社会生活を営めない」という文脈で読み解かれ、子供に対しての、社会や親による教育がどれだけ重要であるかを示す「早期教育神話」として扱われている。
 だが、よくよく考えれば、大抵の人は特別な教育がなくても、通常の会話を他者と交わしてさえいれば、語彙力は自然に増えるのである。教育機会の少ない地域で識字率は低くとも、会話が少ないという話しは聞いたことが無い。
 すると、アヴァロンの野生児の例は、会話の重要性を示すものでしかないハズのように思うのだが、なぜか「教育の全般の重要性」を示す話となってしまっている。
 ここで重要なのは、「教育」とされるものと、我々が社会で生きていく上で、社会の中から得られる「知識」が混同されていることだ。
 もし、子供の語彙力だけを問題にするのなら、特に子供向けにプログラミングされたものではないTVやビデオを視聴させるのもよいのではないか。他者という意味で、TVやビデオは両親とは違った語彙力をもっており、TVで話している言葉を子供が獲得するなら、それは決して悪いとは言えない。もちろん、その言葉を日常の会話で実践的に使わなければ意味はないのだが。
 しかし、最近は「TVやビデオに子守りをさせるのは悪いこと」という主張をよく見かける。どうも「シュタイナー教育」とかいう教育方針らしい。シュタイナーというと、私は「エーテル」やら「アストラル体」といった、オカルティズムを想起してしまい、「おいおい、そんなものと結びついた教育論でだいじょうぶなのかよ?」とは思うが、ここで取り上げる文脈としては、「TVやビデオに子守りをさせるのは悪いことだという教育方針」とだけ理解しておくべきだろう。別にシュタイナーの名前を持ちださなくても、感覚的にTVやビデオを親との会話なしに子供がじーっと見ているということに「おかしい」と感じることは十分理解できる。
 で、「TVやビデオに子守りをさせない」というのは、その一方で「親が子供を厳重に管理する教育」ということである。乳幼児期の子供が親と離れる機会を持つのは家の中だけであるが、TVのような子供が「じっとして見るもの」があれば、起きている子供から親は目を放すことができる。しかし、そうでなければ親はずっと子供を見ていなければならない。
 昔は、親が目を放すことのできる機会は共同体によって維持されており、お婆ちゃんや近所のオバサンといった人たちに預けることもできた。しかし、核家族が増え、近所との関係性が希薄となった現在では、なかなか難しい。
 そこで、親が子供の管理をしっかりする=常に目を光らせておかなければならないという口実として「教育」という言葉が利用される。その内実は親に対する教育責任の押しつけである。それは親は子供のすることに対して「リスク」を負っているということだ。そしてそのリスクは、共同体によって分散可能だった昔より、核家族化と共同体の希薄化で現在の方が高くなっている。
 そうしたリスクを親に受け入れさせようとした時、その理不尽さを封じ込めるために、なんらかの強力な理論が必要となってくる。そこに科学的で客観的な、素人には決して否定できない、脳科学が利用される。

 だが、ここで思い返さなければならないのは、科学は決して客観的な事実のみを語っているわけではないという点である。
 科学的研究は、その研究者の主観的判断によって、スタートするし、また得られたデータを解釈する場合、この解釈というのは主観的な判断なのである。
 TVゲームをプレイしている時の前頭前野の活動について、森と川島はお互いに「前頭前野がほとんど活動をしていない」という同じデータをとりながら、森は「TVゲームが前頭前野の働きを鈍くさせ、痴呆と同じ症状にする」としているのに対し、川島は「TVゲームをするよりも、単純な計算や本の音読の方が前頭前野を活性化させる」と、まったく別の視点からの解釈をしている。
 もちろん、ここに痴呆研究の膨大なデータなどを組み合わせれば、森の結論を否定するは可能だろう。
 しかし、どちらも科学的なデータである以上、少なくともそのデータそのものは批判できないし、痴呆研究の知識がなければ、さも両論並び立っているように見えてしまう。
 そして、この両論並び立った結論のどちらか欲しい方を、我々は「科学的に証明されている」と喧伝することができるのだ。

 ところで、我々はなぜ子供の教育にそこまでこだわるのだろうか?
 「子供の教育が重要なのは当たり前ではないか?」と思う人もいるだろう。
 しかし、少なくともちょっと昔までの日本においては、子供の教育など、さほど重要なものではなかった。
 広田照幸の『日本人のしつけは衰退したか』(講談社 1999)によると、第二次世界大戦以前の一部の裕福層や新中間層を除く一般層、いわゆる「村の共同体」においてのしつけは、現在とは全く異なる意味合いのものであったという。
 現在のような立ちふるまいや生活態度に対するしつけではなく、仕事(家事を含む)に対するしつけであり、逆に仕事さえしっかりしていれば生活態度については問わない親が多かった。当時の労働状況を鑑みれば当然の話で、仕事が忙しく子供たちが労働要因として扱われていた時代には仕事を教える事こそが親のしつけであり、さらに親が子供たちに接する機会のほぼすべてであったといえよう。
 では、生活のしつけはというと、その共同体の中での立ちふるまいの方法であり、決して世間一般に広く通用するようなしつけではなく、ローカルルールともいえるものであった。これも彼らにとっての社会とは、イコールその共同体でしかなかったのだから当然である。
 もうひとつ、家庭の中で子供たちはどういう存在だったかと言えば、仕事や家事の手伝いをする以外はただただ邪魔な存在でしかなく、親は子供たちに一家の収入に不相応なほど、たくさんのこづかいを与え、家から追い出すのが常であった。追い出された子供たちは駄菓子屋などの「子供の社交場」で賭け事などをして遊んでいた。
 つまりは、この頃の親は子供たちのしつけということに対し何ら責任を取る必要がなかったのであり、子供たちの発育の不健全はその子供自身の責任でしかなかった。とはいえ、ローカルルールにおいては悩むべき健全も不健全もなく、ただ共同体の論理に従って動く以外の選択肢はなかったのだから、それについての責任を子供たちに要求するのも無理があり、子供の成長に対する責任など、誰も取らなかったし取れなかった。
 しかし、第二次大戦以降、学校というものが共同体に入り込み、高度経済成長を経て労働形態が第一次産業から二次三次にシフトするに従って社会全体がそれなりに裕福になり、一億総中流的幻想が広まり始めると、しつけの様相は一変する。
 かつては裕福層や都市層でしか行われていなかった、生活全般に対する公共的なしつけ、いわゆる現在のイメージでのしつけが一般層でも行われるようになった。こうした中で親は「子供のジェネラル・マネージャー」としての役割を果たすことを期待されるようになった。
 また、労働形態のシフトは、人口の都市部集中を引きおこし、伝統的な共同体を破壊した。
 交通網は整備され、田舎の方まで高速や新幹線が通るようになった。村は「これで村にも人が戻ってくる」と考えたのだろうが、現実にはまるで毛細管現象のように、整備された交通網を使って人は都市部に移動していった。
 こうした状況下で、伝統的な共同体においての道徳観、つまり生活するうえで熟知している必要のあった「村のしきたり」は、公共的な道徳観に置き換えられた。小さな村で古くから知っている同士が生活するのではなく、巨大な街で知らない者同士が生活するという状況下において、道徳という国全体に共通的な価値観を持つことは日本人にとって、絶対的に必要なことだった。
 考えてもらいたいのだが、「子供の教育」という言葉を改めて眺めた時に、その「教育」という言葉には、「勉学の教育」ともう一つ「道徳教育」が含まれている。たとえば子供が電車の中で走り回っていたとして、親の教育はどうなっているのか? と首を傾げる。このときの教育は勉学の話ではない。もちろん、脳科学と教育の関わりにおいても、決して早期教育などの勉学の話だけに留まるものではない。

道徳と脳

 森は『ゲーム脳の恐怖』の中で、「まったくテレビゲームをしたことがない」という、今の時代にはきわめて特殊と思われる人たちを「ノーマル脳人間」タイプと名付けて、このような評価をしている。

 私の印象として、この人は礼儀正しく、学業成績は普通より上位でした。

 その一方で、「ゲーム脳人間」タイプに対しては、

 ゲーム脳人間タイプの人の様子はというと、主観かもしれませんが、表情が乏しく、身なりに気をつかわない人が多いようです。気がゆるんだ瞬間の表情は、痴呆者の表情と非常に酷似しています。ボーッとしているような印象です。ゲーム仲間で集まることが多いようですが、関りあいは浅く、ひとりで内にこもる人が多いようです。 (略)  もうひとつは自分勝手であること。羞恥心がないこと。そういった人間らしさが乏しい印象の人は、ゲーム脳人間か、ゲーム脳人間になりかかっている危険があります。

 と、言いたい放題である。
 全体としてのトーンは学力や能力といった、勉学に対する批判ではなく、道徳性についての批判である。

 他にも道徳性を問題にしている脳科学は散見される。
 北海道大学教授の澤口俊之は『平然と車内で化粧する脳』(扶桑社 2000)で、車内で化粧をする人や、人前でいちゃいちゃするカップルなどを批判するる。
 上智大学教授の福島章は『子どもの脳が危ない』(PHP新書 2000)で、環境ホルモンなどの影響によって、生態的に脳に欠損のある子供が生まれやすいことに加え、「脳のOSの変化」として、TVやテレビゲームの氾濫によって、イメージ処理を優先する脳の仕組みができてしまい、キレたり粗暴になったりという、道徳的規範の異常を警告している。
 ジェンダーフリーに対するバックラッシュの形で「男と女は脳の構造が違うので、ジェンダーフリーは誤りだ」とする主張なども流行っているらしい。

 なぜ、脳科学と道徳観念は非常に結びつきやすいのだろうか。
 それを語るには、フィニアス・ゲイジという男の存在を忘れることはできない。
 1848年9月13日、当時25歳であったゲイジは、鉄道路線工事の現場監督として働いていた。責任感がつよく非常に有能な仕事ぶりで、誰からも好かれる性格であ
ったらしい。
 その日、彼は岩を爆破する作業を行っていた。しかし、ちょっとした手違いから爆薬を暴発させてしまう。そして、その時に使っていた直径4センチほどの長い鉄の棒が、爆破の勢いで彼の頭蓋骨を貫通してしまったのである。
 しかし、運良く彼は即死を免れた。それどころか、鉄の棒が頭蓋骨を貫通、すなわち脳を損傷したというのに、彼には何ら身体的な欠損が起らなかったのである。
 しかし、彼の性格は事故前とは大きく変わってしまった。すぐに怒り、嘘を付き、盗みを行い、計画だてて行動することができなくなった。
 このことがきっかけで、当時の科学者たちが脳に興味を持ち始めたのだ。ゲイジこそが現在に繋がる脳科学研究の大きなきっかけを作った人間なのである。
 ということは、もともと脳科学は「脳の損傷」と「人間が不道徳になること」の関連性を結びつけるための科学であり、脳科学と道徳観念がわかちがたく結ばれるのは、その誕生の経緯から、極めて当然といえるのである。
 すると、問題行動と脳の関連性を意識する「ゲーム脳」というのは、非常に正統な脳科学の視点と言えるし、脳科学者が「キレる」といわれる昨今の若者の状況に、やたらと脳の観点から警笛を鳴らしたがるのも、うなずける話ではないか。

 なるほど、確かにゲイジは脳の損傷によって、不道徳な人間となった。だが、これは脳の物理的な損傷の例である。このこと「道徳的でない人間は脳の機能が正常ではない」と反道徳的行動を、内部的な脳の機能異常に結びつけるのは本当に正しいのだろうか?
 また、道徳というのは人間社会全体に横たわる普遍的な真理ではなく、ある程度広い共同体に許容される、好ましい「ふるまい」のことである。
 たとえば、我々が普遍であると信じがちな道徳に「人を殺してはいけない」というものがあるが、それは本当に普遍的な真理なのだろうか?世界の各地で戦争が起っている。戦争に賛成する人たちは、こう話す「我々は正義のために戦っているのだ」。しかし、端的に言えば、戦争とは人の殺し合いである。正義のために戦わなければならない社会では「人を殺してはいけない」という言葉は、真理になりえない。
 また、死刑制度も人を合法的に殺す制度である。死刑は人を殺すなど、極度に社会を混乱させる行為をした人間にくだされる判決であるが、一方で死刑制度が存在しない国もある。このことは死刑制度の存在する国にとって「人を殺してはいけない」が真理でないのと同時に、「人を殺したら死刑にしなければ社会秩序が保たれない」という言説も真理では無いことを示している。
 このように道徳が、所属する共同体によって違うのであれば、正常に機能している脳によって得られるはずの「道徳的ふるまい」とやらも、共同体によって違うということになる。自ら所属する共同体の利益を守るための行動であれば、人殺しすら道徳的とみなしうるのだ。
 つまり、脳理論の使い手、もしくは受容者にとって、「好ましい活動をする脳」が正常な脳なのではなく、「好ましいと共同体によって規定される活動をする脳」が正常な脳なのである。

 しかし、「正常な脳」思想は、実は既に脳科学の中に立ち現われて、大変ショッキングな結果を残し、消え去っているのである。それは「ロボトミー」という、道徳的でない人間の性格を矯正するためにする、脳の外科手術である。
 ロボトミーはエガス・モニスというリスボン大学の神経科教授によって発明された手術法である。彼は1935年、重度のうつ病患者に、この手術を行い「劇的な効果を得られた」と発表した。
 では、ロボトミーとはどんな手術かというと、「前頭葉を切り取る」というものである。具体的には「人間らしらを司る」と言われる前頭前野の命令を、脳の他の場所に伝えるための神経線維(白質)を切り取るというものである。
 この手術は当時「画期的なもの」として医学会に大々的に受け入れられた。実際1949年に彼はこの功績によってノーベル医学賞を受賞している。
 で、この手術は患者にどんな影響をもたらしたのだろうか?ロボトミーについて書かれている資料をいくつか読んだのだが、書いてあることがかなりバラバラなのである。
 もともと重度のうつ病患者に対して行われたということから、思慮分別が乏しくなる、自殺などの衝動的行動をとらなくなると言う、消極的な人間になったという説明がある一方で、楽天的で空虚なことしかいわなくなり、生活態度が粗雑になって、犯罪行動などに走る者もいたと、衝動的で無分別な人間になったような説明もあった。
 ただし全体的には「衝動的行動をとる人間をおとなしくさせる手術法」だと認識されているようで、凶悪犯罪者に対する精神治療として行われたりした。
 ここで私はおかしなことに気付く。前述の脳科学の発祥の原因となったフィニアス・ゲイジの話である。
 彼は、鉄の棒によって脳の損傷を受けた。そのことによって粗暴な性格に変わってしまった。このとき彼が損傷した脳の部位は「前頭前野」と呼ばれる部分である。そして、人の性格をおとなしくさせるためのロボトミーも前頭前野の命令を脳に行き渡らせないために行われる手術である。どちらも同じ前頭前野の機能を不全にすることという点では同じなのだが、まったく別の結果をもたらしているのはなぜだろう?
 もちろん、これは素人の浅はかな考えで、脳科学者には即座に論破される性質の疑問なのかもしれない。しかし、ここで重要なのは、片や前頭前野の外傷が不健全な脳を生み出し、その一方で前頭前野からの司令を遮断することが脳の治療とされる考え方そのものである。
 これは、「正常な脳」という考え方が、決して物質的な正常異常という観点ではなく、物質的に脳が正常な人間であっても、反道徳的な性格であれば「異常な脳」として、手術の対象になるということ。つまり、脳の正常異常自体が「本人の性格」によって判断されるのである。

 こうして考えると、脳科学の現代社会においての役割が鮮明に見えてくる。
 脳科学は、その名前の通り「科学」である。
 「科学」は客観的で揺るぎのないものだと信じられている。
 その科学と道徳は「正常な脳」という観点のもとに結びつく。
 「道徳」はけっして客観的な事実ではない。
 しかし、道徳と科学が結びつくことにより、その道徳は脳科学をバイパスする形で、科学的に実証されたものであると見なされる。このことはきわめて重大である。

 道徳は科学ではない。道徳とは、ある共同体における主観的な好ましさに過ぎない。
 「人殺しは良くない」「年寄りに敬わないのは良くない」「子供のうちからボーイフレンドをつくり、セックスするのは良くない」「勉強の時間をTVゲームに費やすのは良くない」「男らしさ、女らしさを否定してはならない」「偉大な指導者に従わないのは良くない」「世界に自由と平和をもたらすための戦争に反対するのは良くない」「有色人種を同じ人間として扱うのは良くない」といった、非常に主観的な道徳観念を、主観的過ぎるという批判を受けないために、客観に置き換えるためのマジックとして、脳科学は利用されている。

まとめ

 ここまでの思考の道程を、初めから辿ってみる。

 私がこの問題に興味を持った、そもそものはじまりである『ゲーム脳の恐怖』において、森教授の考える「健全」は、あくまで彼が考える道徳上の健全性であった。
 このことによって私は、極めて主観的なものの言いようが「科学」と称されることにより、さも客観的な事実であるかのように流布されてしまうということに気づいた。
 そこから、私は「科学」というものの客観性に疑問を抱いた。そして、研究者の研究に対する姿勢から、「科学は必ずしも客観的ではない」ということを確信した。科学のいう「客観性」とは、あくまでも科学を科学的とみなすための要素の1つに過ぎないし、ましてや「科学だから客観だ」などという転倒した理論は成り立たない。
 しかし、「子供」というキーワードのついたものを安易に打ち捨てられない。なぜなら、「脳の成長」は、学歴を中心とした社会においては「子供の成長」と等しく、脳への悪影響はイコール、子供の成長への悪影響と考えられるからだ。
 親、特に子供の育成に責任を取らされることの多い母親にとって、子供の成長は最大の関心事であり、同時に最大のリスクである。子供の成長如何によって、己の人間としての価値まで決定されかねない。
 母親はその不安を払拭するために、早期教育などの脳の成長にそった教育を行うようになる。科学的研究によって、脳の成長は「時間制限つき」と確定されているので、ぼやぼやしているわけにはいかない。
 また、母親は子供のリスクを極力避けるために、言論を転倒させ、母親自身がリスクだと感じていることを、脳科学的に確証されたリスクだということに仕立てあげる。そうした流れの中に「ゲーム脳」もある。
 また、一部の科学者は、それを安直に転倒させ、社会に対して「科学的な提言」を行っている。そしてそれに呼応した人たちが、科学者と同じように「主観的な道徳」を科学として吹聴する。
 一般社会もそれを利用し、子供に「道徳」を植えつけようとする。彼らにとって都合の悪い行動は「脳の悪化」であり、治療の対象だ。その一方で都合のいい行動を翼賛する姿勢は、すでに科学の名には値しない、別の何かである。

 以上のことを、この文章では解説してきた。

 最終的な結論を、もう一度まとめると、
 「脳科学は、ある種の共同体の持つ道徳を、科学という客観的理由で強要するためのツールとして扱われてしまっている」ということだ。

 ある種の共同体とは、いわゆる共通幻想としての「過去の日本」。それは現実としての日本ではなく、各自の記憶の中や、メディアのステレオタイプの中にある、「あの頃の古き良き日本」。日本以外でも、各自が理想とする社会、その人にとっての都合のいい社会。
 そうした幻の「幸せ共同体」が実現しないという現状を理屈づけるために、脳科学が悪用されている。
 なぜ脳科学なのかと言えば、脳は人間の本質、人間そのものと考えられているからで、人間の性格、性質は脳に依存し、脳が不健康なら、性格も不健全になるという考え方は、安易に受け入れられがちである。
 同様な思想はかつては肉体論として成立していたが、現在では「健全な精神は健全な肉体に宿る」などという標語を鵜呑みにする人間はほとんどいない。そのかわりに今は「健全な精神は健全な脳に宿る」というわけだ。その方が科学的、イコール客観的に見える。
 しかし、それは決して客観的な見地ではない。生物の発達、進化は取捨選択によって、正しいものが選ばれるのではなく、ただ環境に適応したものが選ばれるという性質のものである。物質的に健全に育った脳が、我々人間にとって常に「好ましい」選択をする脳であると考える、つまり「脳の健全さ=人間の道徳性」という考え方は幻想に過ぎない。

 結局のところ、彼らが脳科学によって道徳を語ろうとする時、一貫している姿勢とは何かと言えば、それは「無責任さ」である。
 科学者においては、自身の行為が科学の名に値するかを十分に検討せず、たれ流すことによって既成事実化させようとする無責任さ。
 一般人においては、科学の名において提示されたものに、十分な検証もせずに、自分の利益となるなら飛びつき、それを吹聴、拡大させる無責任さ。
 どちらも自身の十分な思考を放棄し、都合のいい道徳観念を他者に押しつける。そして、当然そうした押しつけは、弱者である子供やマイノリティに向けられる。
 脳科学問題の正体は、決して個人の公衆衛生の範囲内に納まるものではなく、社会全体を覆う巨大なな社会問題である。


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