伝染するゲーム脳

(赤木智弘)

ゲーム脳襲来

 「やれやれ、またか」
 それが「ゲーム脳」という言葉に初めて出会ったときの印象だった。
 2002年7月8日の毎日新聞夕刊1面に「ゲーム脳」という文字が踊り、10日にNHK出版からゲーム脳という言葉の生みの親、森昭雄の著書『ゲーム脳の恐怖』が発売された。
 新聞記事を見るに「ゲーム脳」とは、人間らしい感情をつかさどる、大脳の前頭前野という場所の活動が、TVゲームをしているときに低下するのだという。そして、TVゲームを長時間しているほど、前頭前野の活動レベルが慢性的に低くなるというものらしい。
 つまり、このことから当時流行していた「キレる」といった行動の原因をTVゲームのやりすぎに求めることができるという。

 こうやって、なんだかんだと自分たちの理解できないメディア、つまり映画やTVやTVゲームといったメディアを色眼鏡で見て、自分たちが好まぬ行為を結びつけて批判するのはメディア批判論者のいつものやり方である。
 古くは大宅壮一の「一億総白痴化」発言があり、その後に亜種が大量に発生、特にTVゲームやホラー、マンガといったオタク的カルチャーに対する批判は1988から89年にかけて起こった「宮崎勤事件」以降、繰り返し飽くことなく続けられている。
 私自身、中高生の頃にはこうした批判に素直に憤ってもいたが、ゲーム脳という言葉を聞いた時には、もはや鼻で笑う以外のことをしなくなっていた。
 今回のゲーム脳とやらも、そうした批判の1つでしかないと思っていた。
 ただ、今回の場合は「科学的な根拠」が存在することが、今までの批判となんとなく違った気はしてはいた。
 けれども、ネット上を見回しても「ゲーム脳は根拠なし」といった意見が多数であったし、精神科医である斎藤環の的確な批判(1)などもあり、いずれ消えていく言葉であろうと、当時はその程度に考えていた。

 たしかに今、当時に比べればゲーム脳という言葉自体を聞くことは少なくなった。つい先日発売された『ゲーム脳の恐怖』の続編となる森の『ITに殺される子どもたち』という本がそれほど売れたとも聞いていない。
 しかし、それにも関らずTVゲームというメディアに対する批判は絶えることがなく、いまだにTVゲームは子供にとって有害であると信じている人は少なくない。それどころか文部科学省がTVゲームの悪影響を調べた報告書を作成するなど、むしろ「ゲーム脳」という言葉がはやっていた頃よりTVゲーム悪影響論の定説化が進んだ印象を受ける。
 もともと子供の親が持っていたTVゲームに対する素朴で情緒的な違和感とは「TVゲームに熱中し過ぎて、宿題をしなくて困る」程度のことであったはずだ。いつの間に「TVゲームは子供に悪影響を与える」という定説がまかり通るようになってしまったのだろうか?

(1) tv-game.com 『斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖』 http://www.tv-game.com/column/clbr05/

本筋としての、自戒、我々のあやまち、そしてこの文章の目的

 まず、気になるのは「ゲーム脳論理が、正しいのか誤りなのか」ということであろう。
 これから私は「ゲーム脳」論を批判しようとしているのだから、本来ならそれを解き明かさなければならないはずである。
 しかし、残念ながら私は脳機能の勉強やらをほとんどしたことはなく、今から勉強したところで、じゃあ何年後にゲーム脳を批判できる見地に到達できるのかという疑問が残る。
 このあたりは「餅は餅屋」ということで、本職の科学者の方々の奮起に期待するとして、私は別の問題を設定し、それを解いていく試みをしようと思っている。
 ここで語るべき問題は『ゲーム脳の恐怖』の著者である森のデタラメぶりではなく、「ゲーム脳」という言葉に対してその中身の検証なしに発表、流布したマスコミのいい加減さ、報道を鵜呑みにした人々のリテラシー能力のなさ、TVゲーム業界の無反応ぶり、そして我々TVゲームユーザーの危機感のなさといった、さまざまな人々による、それぞれの立場からの反応である。
 この文脈の中で、森の言説が正しいか正しくないかなど、実に些細な問題でしかないことに気付かされる。
 本当の問題は、正しい正しくないという、根拠の薄い、単純な思いこみを、あまりに単純に過信していることである。

 これを明確にするために、まずは他人ではなく、自分自身の自戒から始めなくてはならないだろう。
 私の実家は、かつて駄菓子屋を営んでいて、テーブル筐体のTVゲーム機もあった。そんな環境で子供時代を過ごした私にとって、TVゲームの存在はごく自然な当たり前のものであり、その存在に疑問を抱くことなど全くなかった。
 もっとも、そのような出自などなくとも、我々の世代にとってTVゲームは「あって当然のもの」であり、今さら疑問を挟む余地のあるものではない。
 我々にとってのTVゲームとは、まさに「時代の記憶」である。
 森の世代がかつて遊んでいたであろう、メンコやビー玉、かくれんぼや鬼ごっこなどが、我々の世代にとってのTVゲームなのである。TVゲームの内容の「ここが難しかった」「あそこが感動した」などはもちろん、TVゲームのソフトを貸しあったり、友達の家で一緒にプレイしたり、謎解きで詰まったら情報交換をしたり、そうしたTVゲームにまつわる多くのことが我々にとっての経験なのである。
 我々の世代は、TVゲーム批判に対しては既に慣れっこになっており、たいていのテレビコメンテーターが言うような安直なTVゲーム批判、たとえば「TVゲームはリセットができるから、子供たちは我慢がきかない」などといった言葉に対して、せせら笑うことで簡単に対応を済ませてきた。
 森世代の人間がメンコやビー玉遊びに対して当人たちが違和感がないように、我々も子供がTVゲームで遊ぶことに対して違和感はない。そこに「リセット云々」などを突きつけられても、それを決して深刻に受け取る事はなかった。

 ゲーム脳に関してもそれは同様で、批判の文章は多くあったものの、その大半はゲーム脳を「トンデモ」として、笑って遠ざけるものが多かった。かくいう私もその一人である。
 だいたい私はこの『ゲーム脳の恐怖』という本を、この課題のテーマにしようと考えるまで、全く読んでいないのである。本という一次情報を見ずに、ゲーム脳について書かれたネット上の文章を見て、この程度のものだろうと勝手に想像して批判したつもりになっていたのだからおめでたい。
 ネット上の文章といったって、決してすべての年齢層の人がネットを利用しているわけではないし、中でも文章をわざわざ書いてアップするような人は非常に限られる。その中でも「ゲーム脳」という言葉に反応して、即座に文章を書くような人は、私と同じように、既にTVゲームに親しんできた層の人であろうから、ゲーム脳に対する批判的な文章が多いのも当たり前である。
 とはいえ、我々がたとえWebで詳細にゲーム脳を論破したとして、何か成果が得られただろうか? 現実にネット上には前述の斎藤環の批判があるが、これがゲーム脳という言葉の浸透を止めるのに大きな影響を与えたようには見えない。

 では、一方のゲーム脳を肯定的に扱った人たちとはどういう人たちなのか。
 ネット上で検索をかけると、ゲーム脳を肯定的に扱っているのは、子供の親や教師、塾関係者といった教育の立場にある人間がほとんどである。
 そしてそのうちの多くが「子供同士が黙ってTVゲームに熱中している姿」に対する
違和感や、新聞報道などが少年犯罪を報じる際の常套句である「TVゲームに夢中になっていた」旨の記述に対する極めて素朴な恐怖を感じている事を告白している。
 『ゲーム脳の恐怖』のまえがきで、森はこう記している。

 最近、社会問題のひとつとして、テレビゲームばかりをやっていると心身ともに悪影響を受けることが、多くの雑誌や新聞、書籍で取り沙汰されています。少年が起こしたいくつかの事件の背景にテレビゲームがあることを指摘する論調です。(1)

 ここでいう「指摘」とは、指摘する人間の想像であり、それ以上の何かではない。
 また、このように原因を安直に求めたがる姿勢に対して「原因を1つの要因に求めるべきではない」という指摘も多数あるのだが、森はそのことには目を向けていない。

 この直後に、素朴といえば聞こえはいいが、要は最初っからテレビゲームをする人たち(の一部)の文化に対して、一切理解をしようとしない姿勢を表す文章が続く。

 昨年、幕張メッセで開催されたテレビゲームショーにいくチャンスがあり、見学してきました。その会場の異様な雰囲気に私は驚き、ショックを受けてしまいました。というのも、中学生風の女の子が、左右に立派な白い羽をつけたエンジェルの格好をして、真面目な顔で歩いているのです。しかし、会場をよく見回してみると、テレビゲームの中に出てくるキャラクターそっくりの衣装にみを包み、無表情で歩いている小中学生が、彼女のほかにも百人前後いることに気がつき、再度ショックを受けました。
 このとき、私はこの子たちの将来、そして日本の未来はどうなってしまうのだろうかと心配になってしまいました。(2)

 アニメやTVゲームに出てくるキャラクターというのは、大人か子供のどちらか一方にデフォルメされることが多く、森の見たコスプレイヤー(上記引用のような格好をする人たち)も、その多くは高校生なり、それ以上の年齢だったのであろう。まぁそれは置いておく。
 森の見方の一番の問題は、そもそもここが「ゲームショウ」の会場(幕張メッセだというので、これはCESAが主催している「東京ゲームショウ」であると思われる)であり、こうした会場でのコスプレイヤーの多くは主催側の各種の注意事項にしたがい、参加の手続き(更衣室の利用が実質的な参加登録となる)を経て参加しているという事に気がついてないことである。
 彼女たちは決して、どこかからふらふらと何の意識もないまま、そうした格好でやってきて、会場をうろついているわけではない。ゲームショウというハレの舞台で、好きなキャラクターの姿形を通して、精一杯に自分を表現しようという、積極的な目的意識をもって参加しているのである。
 無表情であるという指摘も、森自身の偏見、もしくは単に撮影禁止区域なので、特に笑顔をふりまいていないだけではないかと推測できる。無表情がダメだというなら、朝の新宿駅を無表情で歩くサラリーマンたちに笑顔をふりまくことを呼びかけてみてはどうか?

 まぁ、こうした指摘はともかく、森自身もマスコミでさかんに喧伝される悪影響論や、子供の特異と思われる行動に対して素朴な恐怖感を感じており、彼が生み出したゲーム脳論理と、親や教師といった人々の親和性が高いのも当然といえる。

 こうした反ゲーム脳側と親ゲーム脳側、両者の立場の違いにおいて、我々、反ゲーム脳側の立場は「普段から我々がなれ親しんでいるTVゲームによる障害などあるはずがない」という立場である。
 しかし、よくよく考えて見れば、ただ慣れ親しんだものへの愛着という、素朴な感情のみによるTVゲームの擁護でしかなく、親ゲーム脳側の「我々の子供の頃にはTVゲームなどなかったのだから、これは悪いものであるかもしれない」という感情とまったく同じなのである。
 ここにいかにも科学的で客観的な検証結果であるかのように見えるゲーム脳論理が持ちこまれてしまったのだから、我々がたちうちできないのは、あたりまえの話である。反ゲーム脳側にゲーム脳論理を遠ざけるだけの科学的な根拠はない。

 我々はもっとゲーム脳論理、いや、TVゲームそのものに対して、現実感をもったまなざしを向ける必要があったのではないか?
 そうした考えから、私はまず最初に「TVゲームによる悪影響は必ずある」と考える事にした。この考えは決してゲーム脳のような荒唐無稽な論理に従うものではなく、むしろTVゲームというメディア自体を有罪無罪の二元論的論理から引き離すための考え方である。
 どうしてこう考えられるのかといえば、メディアに接することよって、我々がなにかしらの影響をも受けないなどということはあり得ない。影響を受けないのであれば、TVゲームをプレイして、楽しかったり、感動したり、イライラしたり、つまらなく感じたりすることはない。これらはすべて「TVゲームの影響」だからである。
 我々は良い影響と悪い影響をつい分けたがるが、これらは決して明確に分離できるものではない。面白く熱中でき、感動を伴うような「良い」影響を持つTVゲームは、子供の宿題の進行に「悪い」影響を与える事は明白であるからだ。それはTVゲームの部分を読書やスポーツに置き換えても同じである。
 結局のところ、私はメディア批判的な文脈でいくらメディアに対する研究を繰り返しても「良い影響もあるが、悪い影響もある」以外の結論など出ないのではないかと考えている。それはメディアというものが決してメディア単体で存在するのではなく、文章を執筆したり、TVゲームをつくったりと、メディアをつくる側があり、その一方で、音楽を聞いたり、携帯でメールしたりしてメディアを利用する側があるのだから、そのメディアと我々の関係性は自ずと極めて雑多で複雑なものにならざるをえず、この事に対して「あるメディアだけに、ある種の偏った影響力が多くある」などということは絶対に言えないと考えるからである。
 私の考え方はともかく、現状としてTVゲーム悪影響論が定説であるかのように扱われてしまっているという現状がある。
 そこでこの文章では、TVゲームに現実的なまなざしを向ける試みとして、ゲーム脳論理なるものがどこから発生し、どのように一般の人々に伝えられ、どのような文脈において受け入れられるのかという考察を通して、最終的にはメディア批判というもの自体がどうした意味合いにおいて沸き起こるのかということを明らかにしていきたい。

(1) 森昭雄 『ゲーム脳の恐怖』(2002) NHK出版 p.4
(2) 森昭雄 『ゲーム脳の恐怖』(2002) NHK出版 p.4-5

「日大教授」の本が「NHK」出版から!!

 始まりは新聞であった。
 2002年7月8日の毎日新聞夕刊1面に「ゲーム脳ご注意」という大見出しで、1面トップ。
 「キレやすい」「集中できない」「つきあい苦手」「毎日2時間以上で前頭前野が働かず」といった見出しが踊り、ご丁寧にノーマル脳、半ゲーム脳、ゲーム脳、それぞれの脳波のグラフまで載っている。また、同日発売の『アエラ』7/15号にも「テレビが子供の脳を壊す」と題した、ゲーム脳の紹介記事が掲載された。(1)
 そして、この記事が出たわずか2日後の7月10日にNHK出版から『ゲーム脳の恐怖』が発売された。

 毎日新聞の記事といい、アエラの記事といい、明らかにこれは本の宣伝を意図してリークされた情報であるとしか思えない。もちろん、本を宣伝すること自体はこすっからいとは思うが、決して悪いとは言い切れない。
 しかし、こうしたマスコミ発表、本の発売をした時点で、公式な論文等が一切出ていないというのは、いかがなものか。
 アカデミックな場所で研究結果が発表されたのは、本の出版から3か月後も後の、同年10月に行われた、日本健康行動科学会(2002年設立、理事長・森昭雄)、第1回学術大会において口頭で。その後、11月に米オークランドの米神経科学会で発表された(論文の提出の有無は調べることができなかった)。

 ゲーム脳論理の根幹は「テレビゲームをしている人の脳波が変化する」ことにあり、その変化とは「前頭前野の働きが低下して行き、β波の出現状態がα波のレベルまで低下してくる」ということである。つまり、TVゲームのプレイ中にβ波の働き(前頭前野の働き)が悪くなることを問題にし、これが慢性化した状態を「ゲーム脳」と呼んでいる。そして、この状態は痴呆者と同じ脳波傾向だという。
 ところが、脳機能を良くするためにと、森が推薦する「運動」においても、実はβ波の出現状態は低下している。『ゲーム脳の恐怖』p.24にTVゲームをしている時の脳波が載っており、同書p.124にウォーキングした時のグラフが載っているのだが、これが程度の差さえあれど、TVゲーム、運動のどちらでも、その最中にはβ波の出現状態が低下し、終了後には元の値にまで戻っている。これのうち前者を「ゲームを始めてすぐに、β波が下がっています」。とし、後者を「運動をした後、グッとβパーセント(原文ママ)が増加しました」としている。同じ傾向のグラフで結論が2つあるのは、明らかに恣意的な解釈と言える。
 また、データの取得方法そのものにも問題がある。森は脳波を「ノーマル脳」「ビジュアル脳」「半ゲーム脳」「ゲーム脳」の4つに分類し、彼らがTVゲームをプレイした時のα波とβ波の関係を示すグラフを掲載(p.74-77)しているが、なぜかデータの取り方が一定ではないのである。ノーマル脳は測定開始から1分30秒後にTVゲームを始め、4分目少々で終了している。ビジュアル脳は測定開始2分過ぎからTVゲームをはじめ、7分目に終了している。半ゲーム脳とゲーム脳はいずれも測定開始から1分後にTVゲームを開始して、6分目に終了している。と、見事にバラバラ。同条件で比較すべき実験で、このような条件のズレは致命的である。
 グラフ上に見える条件すら、これだけ違うというのだから、脳波を取る被験者の環境条件、つまり検査の場所やプレイするTVゲームといった事柄すら同一ではなかったのではないかと、つい勘繰ってしまう。
 また、痴呆と同じ脳は傾向だという話に関しても、痴呆とゲーム脳の因果関係は不明で、ゲーム脳のような状態が慢性化すると痴呆に繋がる、ということは、本の中でほのめかされてはいても、決して十分に検証されているとはいいがたい。ただ脳波の傾向が同じというだけである。
 また、森自身がゲーム脳を調査するきっかけになったのは、プログラマーの脳波をとったら「痴呆者と同じ脳波を示した」ことから、「画面に向かっている時間が長いせいではないか」と推測したことであり、これなら「モニター脳」と名付けてもおかしくない。また後に森自身が「メール脳」(携帯メールをしすぎるとゲーム脳状態になる)という言葉を発表したように、決してゲーム脳はTVゲームだけに起因する現象ではない。ならば、ゲーム脳という名称自体の必然性がない。

 だいたいこのあたりが、ネット上でも見受けられるゲーム脳への批判である。私も同感である。
 だが、この批判に対して森はほとんど、いや一切と言っていいが、答えていない。
 2004年7月に発売された『ITに殺される子どもたち』においても、この批判に答えるわけではなく、『ゲーム脳の恐怖』と同じ論理を繰り返すだけである。科学的知識を持たないゲーマーなど相手にしているヒマはないというわけだろうか。
 そしてネット上で、これだけ明確な批判が行われているのにもかかわらず、大半の人は書かれた内容に疑問など感じずに、「ゲーム脳」という言葉の響きに乗っかったのである。実際『ゲーム脳の恐怖』は見事ベストセラーになったし、ネット上以外のところで、おおっぴらに批判はされなかった。
 そして、そのまま『ゲーム脳の恐怖』という本自体は忘れ去られたが「TVゲームは悪いものである」という認識は今まで以上に多くの人に受け入れられるようになった。
 たとえば、愛知県では暴力的なTVゲームソフト(パソコンゲームのアダルトソフトではない!)を有害図書類に指定するよう、青少年保護育成条例の改正が検討されている。

 それだけの影響を与えるのに、『ゲーム脳の恐怖』の出自が持つ権威性は必要不可欠であった。
 あの「日本大学の教授」である森昭雄という人間が、あの天下の「NHK」出版から出した本であるという権威性は、人々の頭から疑問符を払拭し、それを信用に足る本であると鵜呑みにさせた。
 本来なら、その中身は前述の通り、グラフもその解釈も疑問が残るものであり、普通に読めば批判が噴出して当然の内容である。しかし、批判は普段TVゲームによく接している一部の人たちの中でしか流通せず、多くの人はこの本の内容を「TVゲームは危ない」という単純化をもって受け入れた。
 また、そうした人たちは、ネット上の反論を「ゲーマーの戯言」と受け取った。
 かたや日大教授という大先生のご意見であり、かたや自分の本名も名乗れないような匿名の影に隠れたどこの馬の骨とも知らぬ人間による「便所のラクガキ」なのである。日大教授の意見が信用されるのも当然だ。
 しかし、科学的分野とはいえ、そうした知識は秘伝中の秘伝というわけではない。脳科学の本を調べてもいいし、ネット上にも情報は数多くある。そして、少し調べればα波そのものを「徐波」と呼ばないことくらいははすぐに分かるはずだ。森はα波を「大きくてゆっくりした波(高振幅徐波)」(2)と記してしまっている。
 前にも書いたとおり、ゲーム脳に対する感情的な反論も多いもの、参考文献などをよく調べた詳細な反論もあり、こうした反論を無視できるはずはないのだが、そうした態度に周囲が納得してしまうのはやはり森の持つ権威によるだろう。

(1)asahi.com 『AERAバックナンバー』 http://www3.asahi.com/opendoors/zasshi/aera/backnumber/r20020715.html
(2)森昭雄 『ゲーム脳の恐怖』(2002) NHK出版 p.55

研究はどういう理由で行われるのか?

 ところで、権威によって水増しされたものがゲーム脳論理であるというなら、ゲーム脳論理ではないTVゲーム悪影響論には、客観的で正しい科学的根拠というものは存在するのだろうか?
 TVゲーム等のメディアと発育の関係を調査しているお茶の水女子大学教授の坂元章がWeb上で面白い発言をしている。

 ところが、「将棋のやり過ぎで、将棋をした子供が暴力的になった」という報告はありません。(1)

 しかし、本当に将棋のやりすぎで暴力的なることはないのだろうか? ただ単に報告が存在しないだけなのではないか?仮に、TVゲームと将棋を同程度やっている子供が暴力事件を起こしたら、メディア的にどちらの影響が大きいと感じるだろうか?
 それはもちろんTVゲームである。
 なぜなら将棋は良く知られ、なじみのあるゲームであるのに対し、TVゲームは犯罪の原因であると報道されるような胡散臭いものだからである。結局、TVゲームと将棋を同程度やっている子供の暴力事件は「TVゲームのやり過ぎで子供が暴力的になった」と報告されてしまう。
 ところで、将棋ということなら、森が『ゲーム脳の恐怖』の中でさらに面白いことを言っている。

 将棋ゲームではβ波の活性がやや高まる人も一部にはいました。これはゲーム脳人間タイプの人でした。ただしこれも慣れるとβ波が低下したままになってしまいます。考えなくても、ゲームができるようになるからでしょう。(2)

 なんとこちらは将棋のやり過ぎでもゲーム脳になる可能性を示唆している。ゲーム脳論理で行くなら、実は将棋のやり過ぎで暴力的になった子供がいてもおかしくはない。
 ここで重要なのは、どっちが正しいか正しくないかではなく、実は「報告がない」というのは、研究自体が客観的態度によるものであると見せながら、実は報告という名前の「将棋では暴力的にならないだろう」「TVゲームなら暴力的になるかもしれない」という主観的判断からスタートしていることである。
 いわば、客観の仮面を被って主観の下支えをしている過ぎないのである。
 また、得られたデータについての解釈も、万人が同じ結論を出すものではなく、科学者の見方によって違った結論が出るのである。
 考えてみれば科学者自身だって、決して客観的な何かから科学者という仕事についたのではなく、自身の研究に対する興味や探求心から科学者になったのであり、科学は客観的であっても、科学者という人間自身の立場自体がまったく客観的ではないのは当然といえよう。しかし、我々は科学の名の前に、科学者そのものの立場を忘れがちになる。

 また、メディアと子供の発育の関係性というのなら、本来なら子供がかかわる「メディア」というもののすべてをとらえて研究すべきテーマであるにもかかわらず、テレビやTVゲーム、インターネットといった、あらかじめ「子供に悪影響を与えるであろうと考えられているメディア」に対する研究をばかりが行われているのがメディア研究の現状である。現に坂元が編者として参加した『メディアと人間の発達』の前書きで坂元は、

 本書は多くのメディアを扱うことになっているが、メディアの影響について、これだけ広い領域を網羅的に捉えた書物はあまり見られないであろう。(3)

 と記しているが、この本で扱われているメディアは「テレビ」「TVゲーム」「インターネット」「ロボット」のわずか4種類でしかない。これを「広い領域」などとうそぶく坂元の姿勢には疑問を感じざるをえず、逆にいえば、この程度の領域が「広い」と称されてしまうほどに、メディア研究の幅が狭い現状を見て取ることができる。
 このような狭い領域から抜け出せないメディア研究から弾き出された結果は、いまだ客観とは言い難いと思われる。

 我々はなんとなく科学的根拠というものは客観的で動かす事のできない事実であるかのように思い込んでいたが、どうもそうではなく、科学者自身のスタンスによる主観的な主張に近いもののようである。

 思えば、森が「ゲーム脳」という言葉を使いだしたのも、「モニターに向かう時間の長さ」と「痴呆」の関係を推測し、これをTVゲームに適用したことがきっかけである。そして、この適用に科学的な必然性があったわけではない。
 だが、このTVゲームへの視点が『ゲーム脳の恐怖』という本の売り上げを劇的に延ばすことになる。子供がTVゲームをする姿、ひいてはTVゲームに対する素朴な不安は多くの親や教育関係者がもともともっていたモノだからである。マーケティング的視点でいえば、森はユーザーの需要をしっかりとすくい上げたのである。

(1)nikkeibp.jp 『規制より教育でゲームの悪影響を防げ!』 日経BP社 http://nikkeibp.jp/wcs/leaf/CID/onair/jp/rep03/327233
(2)森昭雄 『ゲーム脳の恐怖』(2002) NHK出版 p.143-144
(3)坂元章 編 『メディアと人間の発達』(2003) 学文社 p.8

「科学的」ってなんなんだ?

 コンビニのジュースやお菓子の棚を眺めていると、「カテキン配合」「ビタミンC配合」「大豆ペプチド配合」「カルシウム配合」。こんなような宣伝文句がパッケージに書かれており、すべてが何か体に大変いいものであるかのように主張している。実際には大量の砂糖水や油脂の固まりでしかないのに。別にそういうものを食べている人をコケにしようってわけじゃない。私だってそうしたお菓子やジュースが大好きである。
 それに、普通の野菜や肉類だって、テレビが必死に「キャベツにはこんな健康効果が!!」「カボチャはなんとかに良いの、奥さん」なんて宣伝活動をしている。こうしたテレビ番組の放送予定が事前にスーパーやコンビニに流れ、小売り店の販売拡張に役立っているという事実もある。
 たしかに、彼らのいうことは、科学的に実証された事実なのかもしれない。ただし、カルシウムの入ったお菓子を食べ過ぎて、骨は丈夫になっても痛風になったとか、キャベツやカボチャのサラダばかりを食べて栄養のバランスを崩したって知ったことではないだろう。
 こうした番組ではもっともらしい「なんとか大学の教授」がしゃしゃり出てきて「肉を食べると体が酸性に、野菜を食べるとアルカリ性に傾く」なんてことをおっしゃるわけですが、たとえば血液ならば、pH値は常にほぼ7.4の弱アルカリ性に調整されており、酸性側に傾けばアシドーシス(pHが7.35未満)、塩基(アルカリ性)側に傾けばアルカローシス(pHが7.45以上)と呼ばれる状態となり、どちらも死に致る可能性がある症状を引き起こす。これが食べ物程度で頻繁に変化するようなら、その人に必要なのは食生活の改善ではなく、入院と適切な治療である。
 もうひとつ、この手の健康番組で特集されるのは、必ず「食材」である。ビタミンや栄養素の名前を示しながら、それは必ず食材に結びつくのである。実際にはビタミンや栄養素そのものを摂取するためのサプリメントがあるにもかかわらず、ほとんど触れられることはない。
 つまり、この手の健康番組が言いたいことは「こうした栄養素をとって、元気になってください」ではなく、「これらの食材を使って、健康にいい料理を作りましょうね。奥さん」ということだ。
 最後に「奥さん」という言葉を入れたが、こうした番組の視聴者層が女性を中心にしていることは間違いない。ある番組では、お昼の生放送ということもあって、番組観覧の視聴者はオバサンばかりだし、別のある番組で流れる食品CMに出てくるのは女性がほとんどである。

 これを逆から見ていくと、まさに家庭で手料理を作るような主婦層(=メインターゲット)にむけて、それを紹介する「科学的」な事実が設定されていることがよく分かる。この手の番組は「ひじきのミネラル健康パワー」なんて事は放送するが、間違っても「ひじきの無機砒素検出問題」なんて事はやるはずがない。

 そして、ゲーム脳論理もこうした構図をそのまま持っている。
 『ゲーム脳の恐怖』のメインターゲットは親であり、TVゲームばかりで勉強をしない子供たちに業を煮やしはすれ、かといって反論のしようもない親たちに「日本大学の森教授」が「TVゲームにはこんなに子供の発育に良くない効果が」として、「ゲーム脳」という一見、極めて科学的で正しそうな反論の言葉を与えている。
 だが、私たちはこれを鵜呑みにして良いものだろうか。
 そのことが正しいだとか正しくないの問題ではない。私たちはそれが正しいか正しくないかなど、まったく判断していないのだ。健康番組のダイエット番組を信じるかのように、単に自分の都合のいいゲーム脳論理にすがって、TVゲームをする人間に対する攻撃をしているに過ぎない。

噂や流言蜚語との関わり

 少し話を変えて、デマ、流言、噂という言葉があるが、ゲーム脳がどう伝えられたかという動きを、この観点から見てみたい。
 東京大学社会情報研究所教授の廣井脩は『流言とデマの社会学(文藝春秋
)』において、まずデマと流言の区別を行っている。
 デマは意図的に仕組まれた情報であり、流言は人々の間で自然発生的に生まれた情報が、関心を持つ集団の中で広がっていく現象であるとしている。
 この区分に素直に従うなら、ゲーム脳は森とマスコミによる意図的な伝達によって伝えられたのだから、デマの要素を多く持つような気もする。
 しかし、TVゲームに対する素朴で情緒的な違和感自体の発生は自然発生であり、既に発生していた感情を肯定し、明確に単語化したものがゲーム脳であるのだから、デマよりは流言に近いものであろう。
 さらに廣井は流言と噂の区別を「語られる内容の相違」「話の広がる範囲の相違」「情報が持続する時間」「語られる状況」という4つの相違点で示している。そして噂は「個人的な話題が」「数十人の間で」「短い期間」「平時に」語られ、流言は「社会的な話題が」「社会全般で」「噂よりも長く」「切迫した空気の中で」語られるという。ゲーム脳は確実に流言の側に入る。
 なるほど、ゲーム脳は社会的な話題である。さらにマスコミによって広く語らている。TVゲームに対する素朴で情緒的な違和感はTVゲーム誕生以降、ずっと持ちつづけられている存在しているから、期間も長い。では、ゲーム脳が流通するだけの「切迫した空気」とはなんなのだろうか?

 既に示したとおり、TVゲームに対する素朴で情緒的な違和感から生じたゲーム脳は「森昭雄」「マスコミ」「親」の三者間で展開される流言である。ならば、切迫した空気はこの三者が感じているものである。
 答えは数々考えられるが、私は「少年犯罪の増加」や「少年の粗暴化」などといった、日々のマスコミ報道が、切迫した空気を明確に演出しているのではないかと感じる。

 マスコミや警察によると、少年犯罪はここ数年で爆発的に増加していると伝えられ、報道ではその要因としてTVゲームやマンガ、ホラービデオが挙げられる事が多い。また『ゲーム脳の恐怖』の続編が『ITに殺される子どもたち』という題名であるように、いわゆるインターネットや電子メールなどのITメディアが目の敵にされることも多い。
 本当に「少年犯罪は爆発的な増加をみせているのか?」とか、「TVゲームやビデオ、それにインターネットが有害なのか?」という部分に関して疑問はあるのだが、今回はその点は問わない事にする。重要なのは、本当にそうなのかではなく、上記の三者がこれらを危機的に感じているそのことなのだ。
 では、なぜこれらを危機的に感じるのかは、心理学的なアプローチによりすでに明示されており、子供に対するリスクは大人に対するリスクよりも大きく恐怖に感じるとされている。
 これは、一般的な感情である「子供は弱いもの、守るべきもの」という認識もそうであろうが、私はこれに子供の成長に対しての、親への責任追求というリスクも付け加えておきたい。子供に対するリスク認知の問題は、本来の「子供」という概念的対象と「自分の子供」という実体からうける親へのリスクという2点で考える必要がある。
 そもそも子供というリスクはそれ自体が複合的な要因を持つリスクである。肉体、知能、判断力、精神、等々が大人に比べて劣っているのはもちろん、さらに、ここ数十年で子供のリスクが増大した最大の要因として、しつけの家庭化に触れておきたい。
 広田照幸の『日本人のしつけは衰退したか』によると、第二次世界大戦以前の一部の裕福層や新中間層を除く一般層、いわゆる「村の共同体」においてのしつけは、現在とは全く異なる意味合いのものであったという。
 現在のような立ちふるまいや生活態度に対するしつけではなく、仕事(家事を含む)に対するしつけであり、逆に仕事さえしっかりしていれば生活態度については問わない親が多かった。当時の労働状況を鑑みれば当然の話で、仕事が忙しく子供たちが労働要因として扱われていた時代には仕事を教える事こそが親のしつけであり、さらに親が子供たちに接する機会のほぼすべてであったと言えよう。
 では、生活のしつけはというと、その共同体の中での立ちふるまいの方法であり、決して世間一般に広く通用するようなしつけではなく、ローカルルールともいえるものであった。これも彼らにとっての社会とは、イコールその共同体でしかなかったのだから当然である。
 もうひとつ、家庭の中で子供たちはどういう存在だったかと言えば、仕事や家事の手伝いをする以外はただただ邪魔な存在でしかなく、親は子供たちに一家の収入に不相応なほど、たくさんのこづかいを与え、家から追い出すのが常であった。追い出された子供たちは駄菓子屋などの「子供の社交場」で賭け事などをして遊んでいた。
 つまりは、この頃の親は子供たちのしつけということに対し何ら責任を取る必要がなかったのであり、子供たちの発育の不健全はその子供自身の責任でしかなかった。とはいえ、ローカルルールにおいては悩むべき健全も不健全もなく、ただ共同体の論理に従って動く以外の選択肢はなかったのだから、それについての責任を子供たちに要求するのも無理があり、子供の成長に対する責任など、誰も取らなかったし取れなかった。
 しかし、第二次大戦以降、学校というものが共同体に入り込み、高度経済成長を経て労働全体が第一次産業から二次三次にシフトするに従って社会全体がそれなりに裕福になり、一億総中流的幻想が広まり始めると、しつけの様相は一変する。
 かつては裕福層や都市層でしか行われていなかった、生活全般に対する公共的なしつけ、いわゆる現在のイメージでのしつけが一般層でも行われるようになった。こうした中で親は「子供のジェネラル・マネージャー」(1)としての役割を果たすことを期待されるようになった。
 つまり、子供の存在は親、特に母親の管理責任が生じうるリスクということになったのである。
 そして、少年犯罪の増加というマスコミ報道が、さも親の持つ「子供リスク」が増大したかのように見せる効果を演出し、それに対する処方箋として安直な数々のメディア批判が登場したのである。そしてその流れの中にもちろん『ゲーム脳の恐怖』もある。

(1)広田照幸 『日本人のしつけは衰退したか』(1999) 講談社 p.126

人々が「ゲーム脳」を欲する理由

 ここまでは、ゲーム脳論理を論理を提供する側、つまり、研究者やマスコミの側から考えてきた。
 しかし、提供する側がいれば、当然、受け取る側がいる。
 ここからは、受け取る側の観点にたって、ゲーム脳論理を考えてみたい。

 『ゲーム脳の恐怖』という本が、それなりに世間に流通したということは、すなわちゲーム脳的言説に対するニーズが存在したということだ。それは当たり前のことのように聞こえるかもしれないが、よく考えてみればTVゲームというメディアに対する批判をしたがっている人間がそれだけ多かったということである。

 では、ニーズとは具体的にどんなものなのだろうか?
 便宜的に3つに分けて考えてみる。

 第1に「私そのもの」の肯定。
 「TVゲームに対しての、素朴で情緒的な違和を感じる私の肯定」や、「マスメディアで報じられる報道を信じた事に対する肯定」をしてもらえる事は重要なニーズである。これを満たさない情報は、私の考えと違う間違ったもの、偏向したものとして遠ざけられる。
 森は『ゲーム脳の恐怖』のあとがきにほど近いページにこう記している。

 肌でいろいろなことを感じ、裸足で土のぬくもりや芝の接触を感じるような経験が必要だと思います。また、海でオゾンの香り、野山では緑の香りをかぎ分け、波の音や虫の声を聞くことなども大切です。(1)

 実に素晴らしい言葉である。子供がTVゲームばかりしていて困るという親に、子供の理想像を示す、文句のつけようもない一文である。
 親というのは「子供にTVゲームをさせるより、自然の中で遊ばせた方がいい」と思うらしい。たしかに私も、表で大きな声を出してはしゃぐような子供には健全なイメージを感じる。
 だが、科学的には何の実証もない。
 本当にこうしたことで脳の活動が良くなるのなら、都会の子供と田舎の子供にもっと成長の差異があってもいいはずだ。しかし田舎の子の方が成績が良いとか、性格が良いなどという研究結果は見あたらない。
 先にも書いたように、昔の子供が外で遊んでいたのは、実は家のなかにいられても邪魔だったというだけの事情であり、室内遊びの幅も限られていた。また世帯ごとの子供の数も多かったから、子供自身も外にいけば、どこかで遊び相手と出会えたのである。
 しかし現在では、親の主な仕事先は会社となり、子供が家にいても邪魔ではない状況が成立し、室内遊びの代表であるTVゲームソフトのラインナップは数多い。世帯は核家族化し子供の人数が減った。塾通いの子供も多くなり、大半の子供は「遊ぶ約束」をしてから遊ぶようになった。
 こうした状況を考えれば表で遊ぶより家でTVゲームをすることを子供が選択するのも道理といえる。
 しかし道理とかそんなことは関係ない。親は「私が思う好ましい子供」というイメージを肯定してもらいたいだけであり、現状を踏まえてしっかり子供を理解しようというニーズは少ない。もし私がゲーム脳を信じる親に上のような事を言っても「ウルサイ」と怒られるか無視されて終わりだろう。
 子供の立場に立って理屈をこねる口うるさい人間より、野山で遊んで虫の声を聞く方が良いと言ってくれる、日大の教授の方が親自身にとって、都合がいいのである。

 第2に「子供をちゃんと育てている親である」という、親という立場に対しての他者からの肯定。
 1に似ているが、1は自分自身による自分自身への評価であるのに対して、こちらは他者からの肯定欲求である。
 高度経済成長を経た社会の中で、子供というのは、親にとっては極めて重大な課題であり、自身の評価を決めかねない重大なリスクであることは既に説明した。
 重大なリスクがあるということは、その一方でリスクを適切に回避することによる充足感も発生するのであり、子供に生じうる悪影響を自身の素朴な感情で察知することができた親という評価は、親を十分に満足させる事ができる。
 その事に対して「ゲーム脳というリスクは本当に存在するのか?」という質問は愚問である。なぜなら、そのリスクを負ってからでは遅いからだ。リスクがありそうな物はとにかく避けるのが親にとっての「正しい事」である。
 森はあとがきでこう述べている。

 多くのお父様、お母様方がこの本を読まれ、子供の脳の現状を理解され、お子さんが健やかな人間に成長されますよう願っております。(2)

 逆からみれば、「お子さんの健やかな成長は、親が子供の脳の現状を理解するか否かにかかっている」という意味の言葉であり、「子供の脳の現状」という言葉が指し示すものは、もちろん「ゲーム脳」である。つまりTVゲームをさせずにお手玉や運動をさせれば子供は健やかに育つのだという。
 だが、脳の前頭前野の働きが活発になることと、子供が健やかに育つということは、何の疑問もなしにイコールと言い切れるものではないだろう。

 第3に「他者批判」。
 自分が違和感を持つ他者そのものを批判することは、メディアなどのモノに対する批判よりもはるかに大きな満足を得ることができる。

 思えばゲーム脳論理というのは、TVゲームをする若者に対する批判でもある。若者批判というのは、それこそ原始の昔からつづいている愚痴であり、エジプトのピラミッドから「最近の若い者は云々」と書かれた紙が発見されたなんて話があるくらいである。もちろん自分の立場やスタンスが確定した大人から見れば、若者の不甲斐なさというのは目に付きやすいのは当然で、愚痴である一方で、成長する若者の態度を見守る大人の態度だということもできるだろう。
 しかし、ゲーム脳という症状を媒介した若者批判は、若者を病人として扱い、決して若者を尊重しようとはしない。
 親が子供をゲーム脳という病気だとみなして、非常に見下している様子が『ITに殺される子どもたち』に見られる。

 インターネットで対戦ゲームばかりしているという女子大生Aさんの親から相談を受けたことがあります。毎日大学へも行かず、コンピュータの画面ばかり見つめているそうです。対戦している相手はどうやら定職のない若い男性のようです。彼も一人暮らしではないようで、親と一緒なのか、ゲームをしていても生活には困っていないようです。もちろんAさんは彼に会ったことはありません。インターネット上のつきあいです。
(中略)
 Aさんは、せっかくがんばって大学に合格したのに、毎日夕方になるとコンピュータに向かい、明け方の4時か5時までゲームをしていて、その後風呂に入って寝る。午後まで寝ていて、日によっては午後の講義に行くこともあるらしいのですが、ボーッとしていて、また夕方になってゲームを始めるという生活を送っています。
(中略)
 Aさんはだんだん話もしなくなり、お母さんは心配して精神科に連れていったのですが、「病気ではありません。悪いことをしていないのだから、いいんじゃないですか」と言われたそうです。(3)

 この親の子供に対する態度であるが、競争競争でがんばって大学に入った子供が、安心感というか、大学ののんびりとした雰囲気に飲まれてか、大学生活を適当にのんべんだらりと過ごし始めるというのは決して珍しくはない事例であろう。それをわざわざ精神科医に連れて行って、病気であると決めつけ、医者の「病気ではありません」の言葉に納得せずに森に相談するなど、この親の行動はあまりに神経質すぎ、子供を無視しているとは言えるのではないか。
 また、これは本当に研究者の文章なのだろうか? 憶測と客観的事実がごちゃまぜである。
 ネットの向こうで対戦している人物が、男性なのか? 若いのか? 親と同居なのか? 定職がないのか? などなど、調査もせずに分かろうハズがない事柄が、推定調の表現で勝手に決めつけているさまには苦笑するしかない。

 ネット上でゲーム脳論理を用いてTVゲームを批判している文章を見ると、教師や塾の講師、また一般の人の批判でもいわゆる教育論に乗っかった形での批判が多い。教育という文脈でいうなら、教育する側が親であり教師であり大人である。教育される側が子供であり生徒であり若者である。
 日本においては「学生・生徒」と「社会人」の区分は極めて明確なものであり、一度社会人になった人間が学生に戻るということはあまりない。こうした日本の教育概念は大人自身の頭の中身を無視して、子供だけに教育の重要性を押しつける。これは年齢という非可逆性による非難であるといえる。
 非可逆性による非難は、自らを絶対的な安全圏に置けるという安心感からか、非常に苛烈なものになる場合が多い。ざっとあげてみても、民族、身分、性別、肌の色。こうした非難はいずれも極めて問題の深い非難であり、たとえここまで厳しく見えなくとも、ゲーム脳という科学的らしさをもっての若者批判も、こうした非難の末端にあることに違いはない。

(1) 森昭雄 『ゲーム脳の恐怖』(2002) NHK出版 p.189
(2) 森昭雄 『ゲーム脳の恐怖』(2002) NHK出版 p.195
(3) 森昭雄 『ITに殺される子どもたち』(2004) 講談社 p.27-30

ゲーム脳もバッシング文脈による

 子供リスクに対する処方箋が求められるなかで、数々の安直なメディア批判が登場している。
 しかし、何故こうしたメディア批判はよく流通するのだろうか。
 メディア批判といっても、メディア全般に対しての批判が流通するわけではない。メディア批判が流通しやすいのは、TVゲーム、マンガ、アニメなどといった「オタク系メディア」と、ホラービデオ、サブカル系の書籍や雑誌といった「サブカル系メディア」である。オタク系とサブカル系は同義に見えるかも知れないが、ここで扱う「サブカル」という言葉は、ハイカルチャーに対比する大衆文化という形でのサブカルチャーではなく、精神世界や薬物やアンダーグラウンド等々を含む「サブカル系」という1つのジャンルそのものである。オタク系メディアもサブカル系に含まれると思う人もいるかも知れないが、オタク系メディアは普通の人が普通に生活していても接する機会が多く、市場的にも極めて大きいメディアであることから、マイナー性が常であることが多いサブカル系には含まないのが適当といえる。

 ここで、メディアの違いが批判の印象をどのように変えてしまうのかの例をあげてみることにする。
 TVゲームであれば「TVゲームはいつでもリセットしてやり直せるが、人生はやり直すことはできない」「人とのつきあい方もデジタル化し、孤立の方向に進む」などという批判はそれなりの説得力をもっているかのように流通する。しかし、同じゲームであってもオセロに対して「白と黒の2つのみの世界で遊ぶことは、物事をすべて二元論で理解しかねない」「容易に白と黒をひっくり返せることから、他者のコントロール願望に繋がる」などという批判をしても笑われて終わりだろう。ビデオでも「子供がホラービデオばかりみている。将来犯罪を犯すのでは?」と心配する親はいても「子供がプロジェクトXばかりみている。将来犯罪を犯すのでは?」と心配する親はいない。また、先に記した「将棋のやりすぎで暴力的になった報告はない」という事例もこれと同様である。
 このように、同じメディアでもその中身による、ある種の線引きが存在する。そして、その線の向こう側を「いかがわしいもの」として非難の対象にする。ただし、その線自体は決して明確ではないものの、線引きの方向性は極めて恣意的である。たとえば例に出した「プロジェクトX」。これは「ものづくり」を礼賛する一方で、鎌田慧の『自動車絶望工場』に見られるような、高度経済成長を産み出した時代の「ある種の現実」を覆い隠している。
 そう考えると、決してプロジェクトXがいかがわしい番組でないとは言い難いはずだが、そのことは決して問題視されない。
 ここで発生している「恣意」が何かと言えば、優先すべきは開発者が切り開いた経済力であり、工場で働く工員の事など問題にしないということである。経済力の発展は我々にとって好ましいので、他の部分には目をつむる。そういう恣意性である。
 メディアに対する線引きもまさしく同じで、我々にとって好ましいものは「こらち側」であり、その他の我々が普段接しない、わけの分からないものは「あちら側=いかがわしいもの」として扱うのである。つまり、メディア批判の文脈はそのメディアが「こちら側」であるかどうかで決まる。たとえばオセロは自分の良く知っているもの、すなわち、こちら側のものであり、画面を見ても子供が何をしているのかよくわからないTVゲームはあちら側のものである。マスコミなどでも報道され、自分は読んだ事はないけど、なんとなく知っているハリー・ポッターはこちら側で、なんとなくわけの分からない絵が描いてあるマンガ本はあちら側である。
 これは、いかがわしいから注意しようという「積極的理由」をもってメディア批判がされているのではなく、こちら側のものではないからという「消極的理由」をもってメディア批判が生まれているということである。
 しかし、これだけではメディア批判がよく流通する理由にはならない。消極的理由は個人の中で発生するものではあっても、これを積極的に伝達する理由がないからだ。本来は消極的理由であるはずのメディア批判、下手すれば批判した方が偏見の持ち主であると受け止められかねないリスクを勘案してまで、「いかがわしいから注意しよう」という積極的批判を、わざわざ他人に伝達する必要性はどこにあるのか?
 それは、こうしたメディア批判をする側に立って考えてみれば一目瞭然で、会話の中でメディア批判をすることによって、お互いの間に共通性を見いだし、関係性を深める事ができるからである。ただし、この手法はお互いにある程度の合意、つまり話をする相手が自分と同じようにメディアを批判的にみていると予測ができない限り使えない手法であり、そうした予測のための情報はどこから発生するのかといえばマスメディアからである。マスメディアがそのメディアを批判的に扱っていれば、視聴者はそのメディアを批判的に扱っていいものとする。視聴者がメディアを批判的に扱えば、マスメディアも迎合してそのメディアを批判するようになるというスパイラルが発生する。
 しかし、この二者間だけではいつまでたっても、さしたる理由のない愚痴に過ぎず、友達との関係性を高めることにしか役立たない。バブル以降自信を喪失した日本人にとって必要なのは自己肯定であり、そのためには自分のメディア批判を強く、客観的事実として肯定してくれる存在が必要であった。
 そうした欲求が高まる中、「日本大学の教授」が「科学的な実験」をもって、「NHK出版」から出版した『ゲーム脳の恐怖』はまさしく、最大限に力強く自己肯定をしてくれる存在であったのだ。

教育をするということ

 何を今さらと思われるかもしれないが、ゲーム脳論理は明らかに子供を対象とした論理である。『ゲーム脳の恐怖』は子供がゲーム脳になることに警笛を鳴らしている。
 そしてその警笛は子供自身に直接ではなく、子供の親に与える形である。つまり親に対して、TVゲームをなるべくやらないような教育を呼びかけているのである。
 一見、当然のように思えるが、「親が子供を教育する」ということはそれほど単純な話ではない。

 教育や育成という事を考えた時に、我々はおのずと、教育される側に子供を置き、育成する側に大人を置いてしまう。当たり前に感じるかも知れないが、教育される側に子供を置くのはいいとしても、大人は常に育成する側なのだろうか? 本当は我々だって常に別の誰かによって教育されている側であり、する側される側の区分は決して明白ではない。
 ところが、ゲーム脳論理においては、この両者の区分は明確となる。いや、これはゲーム脳論理だけではなく、教育関連全般の論理においてである。大人は自分の立場を育成の側に置くかぎり、子供に対して常にイニシアチブを得ることができるといえる。私は、親が安易に教育論(もちろんゲーム脳論理もその一つである)に飛びつく要因の1つをここに見ている。
 現代社会において、我々のような権力のない個人は、常に誰かの権力の下支えをすることでしか生活の術はなく、自分の主張を相手に直接ぶつけられるような機会にほとんど接することはない。
 しかし、子供ならば(それが自分の子供ならなおさらであるが)、直接的に自分の意見をぶつけることができ、しかも反撃の危険性は少ない。そこには、権力を持たない大人が、唯一無制限に権力を行使できるのが子供であるという構図を見てとることができる。
 もちろん「教育は意見の押しつけではない」という反論もあるだろうが、教育に教える側の価値観が包有されていることは疑いようがない。
 そして、押しつけの後ろめたさから逃れるための一種の装置として、親から子への教育や愛情といった言葉が作用しているのではないか。

 また、このことは、現実の子供に対してだけではなく、世代全般にも適応可能である。世代に対して個人が直接的に無制限な権力を行使することはできないが、世代全体としての優越感を誇ることは可能である。
 そしてその「世代の優越感」は若者世代に適用される。

 ところで「子供世代」とは、どのくらいの年齢をいうのだろうか?
 法的には20歳未満は未成年と言われているが、じゃあ19歳の大学生を子供と称するのがふさわしいかは疑問が残る。せいぜい中学生ぐらいまでが「子供」の範疇だろう。
 もう1つ、「若者世代」これは普通にいう若者の事であり、細かい定義は必要ないだろうが、念のため18歳から25歳前後ということにしておく。

 ここで世代の定義をしたのは、ゲーム脳論理の文脈が、優越感を演出するために、「子供世代」と「若者世代」とを、巧妙にだぶらせているということを解説するためである。

 森は子供の脳を4つに分類する際に「多くの大学の学生に協力してもらい、データがあつまりました。(1)」としている。細かいデータはないものの、大学生であれば当然20歳を超える大人がいることも明白で、森がこのゲーム脳論理を、まずは「若者世代」に適用していることが分かる。
 たが、このまま「若者世代」を比較対象にしてしまうと不都合が生じる。「若者世代」の能力が大人と比べて明確に低いとは言えないからだ。社会性が低いとは言えそうだが、学生には学生の、会社員には会社員の、農家には農家の社会性があり、決して単純に高低を評価できる能力ではない。
 ここで森は大学生から取った脳波や行動傾向をあくまでも分類上のデータとして、実際には「子供の教育問題」を語っている。
 「若者世代」と「子供世代」のズラシがここにある。このことにより、「若者世代」を批判対象としながら、力関係の優位対象を「子供世代」に設定することができるのである。つまり、「TVゲームをする若者世代は、子供のような未成熟な人間だ」という世代としての優越感を得られるということだ。たしかにTVニュースなどを見ていても、オタク系メディアのマニア、いわゆる「オタク」がなんらかの事件を起こした際に、このような冷ややかな視線を見ることが多い。

 思えば、日本の教育観というものは、生涯教育などとは言われてはいるが、その大半は義務教育の時間的な直線延長である、学校教育によっている。つまり、6、3、3、4、と途切れることなく続く時限性の教育であり、一度大学を卒業して社会人になってしまった大人が再び大学で勉強を始めるということは、あまり一般的ではない。
 その点において、「大人」と「学生以下」の社会的階層はハッキリと分断されており、立場の違いは非可逆的であるといえる。さらに、「義務教育上の生徒」であれば、年齢による階層であり、これは完全に非可逆である。
 そして、非可逆であればあるほど、相手の立場を省みることが少なくなる。
 森はさかんに自然とふれあうことを勧めるが、前述の通り、すでに子供の遊びのラインナップに「自然と触れ合う」という選択肢はない。お手玉にしても、今の子供がお手玉をして楽しいだろうか?趣味としてはいいかも知れないが、他の子供とのコミュニケーションは増えそうにない。そうした事実に目をむけずに、古臭い己の子供観やあそび観を前面に押し出す、ゲーム脳論理やその支持者はいったい子供の何を見ているのだろうか?
 ゲーム脳論理は、一見子供の事を考えた教育的な装丁をみせながら、その実は大人が一方的に子供を断罪するという危険性を伴っている。

(1) 森昭雄 『ゲーム脳の恐怖』(2002) NHK出版 p.72

まとめ

 最近の私は、それほどTVゲームをしているわけではない。まともにするTVゲームなど半年に1本あるかないかだ。
 しかし、子供の頃には飽きることなく延々とTVゲームをしていた。前にも書いたように、TVゲームは我々にとっては「世代の記憶」なのである。
 それは森たちの世代が自然の中でのびのびと遊んだことと決して違いはないはずだ。
 結局のところ「ゲーム脳」を巡る感情的な議論の根幹というのは、単純に自分たちの「過去を守る戦い」に過ぎないのではないか。それならば単なる世代の相違で話は済んでいたはずである。
 しかし、森はここに「脳」という科学的なものを持ち込んでしまう。
 脳の問題は、人間の人格に対するまなざしを左右しかねないクリティカルな研究課題であり、決して安易に扱われてはならないはずであるが、森はこれを持ち出し賛同する側に与えた。
 科学による、一見極めて客観的で正しいように思われる権威性は、「ゲーム脳」という名前のTVゲーム悪玉論を揺るぎのないものにした。

 しかし、本当に揺るがないのだろうか?
 多数の科学者によって確認され、確立した論理は科学的である。しかし、ゲーム脳はいまだ研究の途中である。
 研究途中の論理は、ある科学者の視座の1つに過ぎず、極めて主観的な性格をもつ。また、その論理を信じる側も主観的である。
 今だ論理が主観的であるならば、これには十分に抵抗できる。私はこの文章でそれを試みたつもりだ。
 TVゲームがいつまでも子供たち、いや、我々の良い友人でありますように。


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