テキストサイト論、そしてジャーナリスト論


 私がサイトを一時閉鎖したのは、NHKで放送された格差の番組の中央に、ホリエモンが座っていたからだ。
 もちろん、それは最終的に引き金を引いただけのことであり、ホリエモン……もとい堀江様そのものが原因というわけではない。
 ただ、周りに社会人やらフリーターやらの多くの人が座るスタジオの真ん中に、まるで何か一見地をもった人間であるかのように座る堀江様という、実に醜悪なスタジオの絵を見て、何かさまざまなことに、ほとほと嫌気がさした。
 「ホリエモンNHK生激論、貧富の差当然」
 別に堀江の考え方に、今さら私が苛立ったわけではない。こうした言説はまさにネオコン的言説であり、非常にステレオタイプ的なモノだ。実に「今さら」だ。
 だが「そもそもNHKが堀江をこのスタジオに呼ぶ意味があったのか?」と、こう考えた時に、嫌気がさしたのだ。そして、上記リンクで書かれているのが、ホリエモンの言動だけであるという、そのことについても。

 録画を失敗したので、ごく一部しか見られなかったのだが、この番組には『希望格差社会』の山田昌弘やら、慶應大学の金子勝など、格差問題について、それなりの見地を持っている人が出ていたはずだし、先に書いたように、周りには現実に格差問題に悩む一般の人たちがいた。
 けれども、あのスタジオにいた中で、その発言が一番注目され、伝えられたのは、堀江様であった。
 「格差」という問題を取り上げながら、もっとも注目されたのは格差ということに対して、何の考えも持たない、バカの堀江様。
 デジタルディバインド(情報格差)ということを考えた時に、一般的になされる言及は「インターネットなどに接続し、情報を取得できる人と、できない人」という構図であるが、本当の格差は「マスコミなどを通じて、大きな声を出せる人と出せない人」という構図にあるのではないか?
 そのことを明確に示したのが、格差を問題にしながら、堀江様を画面に出すことによって、格差についての言論をすべてふっ飛ばしてしまった、NHKのこの特集である。
(05/04/10)


 JCが始まって、そんなに立たない頃だったろうか?いや、その日は高速バスで帰った覚えがあるので、中盤の頃か。授業のあとに武田さんを含む4人ぐらいで食事をしていたときに、Kさんがこんなことを言った。
「赤木君がこれからやらなければならないことと、今やっていることは、違うと思うのですよ」
 私は、ずーっとこの言葉が引っかかっていた。なぜなら、自分としても以前の「夜のシマネコ」でやっていることが、それなりに自分にとって必要なことではあっても、それ以上のものではないことに、当時気付き始めていたからだ。
 私がBlogという言葉を始めて聞いたのは、多分2002年の11月のことだと思う。
 リンク先をちょっと見ればわかるが、私はこの時点ですでに「Blogにかかわらない」ことを決定している。そして、その数日後に、すでに「雑談を中心とした、他愛もない交流目的のBlog」という結論を出してしまっている。
 このときのBlog観は、正解そのものであり、交流のみを目的にした他愛もないBlogが氾濫し、玉石混合から、石ばっかりの賽の河原と化したのが、現在のネット言論の現状であると、そう見ている。
 だが、それは決して私の日記とも不可分のことではない。当然、Blog的な、本文が中文程度で、その下に一行コメントがつき、主従関係が明白で徹底した批判が行われないという、仲良し社会がテキストサイトの主流であれば、同じテキストサイトであり、「日付」という分類で話題を提供しているこのサイトも同じ見方をされるのである。
 加えて、コメントもトラックバックも付けられない、「遅れたBlog」としてしか機能できていないこの日記は、いずれBlogの海の中に沈む運命にあった。いや、もう沈んでしまっているのだろう。
 Blogの本質は、表面的な開放性とは裏腹に、実は囲い込みの世界である。「はてな」のワード検索が良い例であるが、クリックするだけで同じワードを利用した日記を検索できる。ただし、それは同じはてなのユーザーしか検索できない。しかし、大半の人にとっては、それで十分なのである。
 また、Blogの本質の1つであるトラックバックは、自ずとBlogユーザー間での交流を主としてしまう。自分のサイトを多くの人に訪れてもらうためには、他所のサイトにリンクをはってもらわなければならず、それには相手からではなく、自分から相互リンクを「強要できる」トラックバックは最適なのだ。
 そして、Blogユーザーの興味の先は、Blogサイトのみとなる。Blogでかかれた日記のみが引用、トラックバックされ、その他のweb日記は相手にされなくなるのだ。
 Blogが多数の人に利用されるようになれば、交流としてもそれで十分なのだ。Blogを使う有名人はもちろん、Blogを使う一般人と、Blogを使わない有名人というコミュニティーの外に、Blogを使わない一般人は追い出されつつある。そんな実感が確かにあった。
(05/04/13)


 多くの人間が政治や社会について発言できる。そんなWebの特性も、2chやBlogやマスコミといった、強烈な光を放つパワーポイントに打ち消される。発言はできても反応はされない。まるで誰も受信しないアマチュア放送局のような世界。それがWebの現状と言える。
 そんななかで、Webの匿名性は「我々一般人」という同一性のもとに、権力に利用される。いわゆるテキストサイトでの世論調整や、イラク人質事件における自己責任論。現在の中国への「反日デモ」という決め打ちは、まさしく「官製Web」の名にふさわしいものだ。
 いくら大多数の人間が憂慮、発言しようとも、そうした「官製」のパワーをまったく跳ね返すことのできない事実。
 いや、嘘をつくのは辞めよう。やはり自分にとっての問題は自分のことなのだ。だから、自分の文章がそれらにあっさりと力負けしてしまう事実を、いったい自分の中でどのように消化するかというのは、ずいぶん昔から自分の課題になっていた。

 ジャーナリストというのは、さまざまな事象にさまざまな見地を持っている人の呼称ではなく、多くの人が目にするメディアで発言する機会を得ている人の呼称だ。私はそう思う。そうでなければ、数多くの頭のおかしな人がジャーナリストを名乗り、あそこまでふざけた妄言をつらねることができるわけがない。日本のジャーナリストの大半にはジャーナリストたる気概などない。別に安倍・中川によるNHKへの圧力の例を挙げるまでもなく、日本のジャーナリズムの中核たるマスメディアがあの調子なのだ。
 まぁ、他人はどうにせよ、結局、他者に伝えたいことを伝えるためには、なるべく多くの人の目に触れるメディアを使い、意見や情報を発信していかなければならない。そのためにジャーナリストとは、当人の気概や情報の正確さを第一に考えるのではなく、いかに目につくメディアに文章を乗せられるのかが勝負なのだと、そう思うことにした。
 万人の目に触れる「可能性」しかないWebで細々とやっても、それは結局自己満足にしかならない。実際に人を動かす力を得る可能性がやるのは、やはり新聞やTV、よく知られた雑誌などの巨大なメディアなのだ。
 巨大なメディアをもって、巨大な発言力を利用し、他人を動かす。それは個人の放漫ではなく、戦略と考えるべきである。そうでなければ、官製パワーにまったく対応できない。

 Blogを中心にした、サイト構成の現状は、その大半が日記形式を用いた文章である。
 日記形式を用いた文章の多くは、本文が長くなく、その面白さはネタの勢いに比例する。そのために内容の具体的な立証を欠き、また読者側もそのことを求めない。
 個人のプライベートな内容を記した日記であれば、それも構わないだろうが、社会的内容すら嘘やデタラメが入り交じっても構わない事になってしまっている。
 「だからWebはダメなんだ」という話ではない。これはただ、日記形式の特徴を記しているだけだ。だからもう少し続ける。
 日記形式のもっとも大きな特徴は、日付が先頭に来るということである。当然のように思われるかも知れないが、それは同時にその日記において最も大事なのが内容ではなく、日付であるということを表している。その日に書かれたその内容こそが重要なのであり、内容単体が重要ではない。これは文末につけるタイムスタンプとはまったく別の意味を保つ。
 多くの日記形式文章の賞味期限は、まさしくその1日だ。
 その1日にネタを書き、後にその内容を振り返って検証することもない。要は考慮の期間が一切ないのだ。
 書く側も読む側も、その文章を目にした時点で対応を決定しなければならず、その対応は決して熟考に至らない。その時間がないのだから。
 そして多くは「記号的」に判断される。ちょっと韓国や中国に友好的な事が書いてあれば「サヨ」「プロ市民」。つくる会や南京虐殺はなかったなどと書かれていれば、「ウヨ」「厨房」。そうしたネットの反応の多くはまさに脊髄反射的である。

 だが、それは決してネット上だけの話ではない。
 だいたい、我々は多くの事象から自分で考え、反応をするということを、普段の生活において、全くしていないのだから。

(05/04/20)

Return Index