父性の復権

 現代批評文を書くときに最低限、気をつけなければならないことがある。
 それは「目標をしっかり見据える」ということだ。
 誰を味方に、誰を敵にし、なにを伝えるのか。
 今回紹介する「林道義」の「父性の復権」はそんな最低限のことをまったく考えていない本である。
 結論から言ってしまえば、書いてあることはそれほど間違っていないし、しっかりと読み込めば彼の言っていることが重要なことであることは分かる。
 しかし、それは読者が「しっかりと読み込めば」の話。

 「父性の復権」というタイトルをみて、皆さんはこの本をどんな本だと思うだろうか?
 たいていの人は「父親を尊敬しろ。などと書いてある本ではないか?」と思うはずである。
 それでは実際どうなのか。序章、すなわち前書きの一番最初の項「父が父でない」を引用する。

父が父でない

 父が父でなくなっている。父が父の役割を果たしていない。家族を統合し、理念を掲げ、文化を伝え、社会のルールを教えるという父の役割が消えかけている。その結果、家族はバラバラになっていわゆる「ホテル家族」となり、善悪の感覚のない人間が成長し、全体的視点のない利己的な人間や無気力な人間が増えている。
 父としての役割は立派な父でないと果たすことができない。立派でない父が家族を統合しようとし、理念を掲げても、家族から無視されるだけである。立派な父が必要とされているのに、しかしその立派な父が育ちにくいのが現代社会である。そもそも「立派」などというものが流行らない世の中だのだ。自らの欲望をコントロールし、全体の将来を考えてリーダーシップを取り、各成員の調停をして取りまとめ、ルールを教えるという「立派な」人格は、尊敬の対象にはなりにくい。「正直」だの「誠実」だのという抽象的な徳目を唱える父親は、子供たちから煙たがられる。あまり立派でない、むしろだらしのないくらいの父親のほうが親しまれることになる。「ありのまま」がよいとされ、「立派」なのは無理していると見られ、不自然だと見なされる。


 さて、皆さんはここまで読んで「父性の復権」≠「父親の復権」である。ということに気づいただろうか?俺は気づかなかった。ていうか、分かるか!!
 タイトルが「父性の復権」であり、本を開いて最初に語っていることが「父親」である。これはどう見たって「父性」=「父親」と著者が見なしているとしか思えないのだ。
 そして本編中にもひたすら「父親」のことばかり書いている。
 著者が明確に「父性」≠「父親」を示しているのは最後の方になってようやく
 「だから私は父親の役割とか性質と言わないで、父性という抽象的な言葉を使っているのである。もし読者の中に、父性は父親だけが持つべき物だと理解した人がいるとしたら、それは大きな誤解だということを、ここで特に断っておきたい」
 と書かれているにすぎない。
 そして、これが書かれるまではただひたすらに「父親の役割や性質」ばかりを論じているのである。

 本来、「父性」=「父親」が誤解であるということは本の冒頭で確実に説いておかねばならない誤解なのだ。それなのに、それをせずにひたすら誤解をされて当然のような記述をなぜ著者は続けるのだろうか?
 それは結局、著者自身がアメリカ直輸入の「家族」という概念に縛られているからであり、また文章を書くにおいて、著者の本質としての「若者が嫌いである」という感情的な問題から離脱しえていないからである。
 それを顕著に表しているのがこれまた序章である。
 序章に書かれていることは大きく分けて2つ、1つは先に述べた「父親の役割や性質」。そしてもう一つが「最近の若者は……」である。「父親不在の母子共生」から一部引用する。

父親不在の母子共生

 父性の不足を示す顕著な例をもう一つ示すと、このごろ電車の中で男子学生のオシャベリが目立って多くなっている。今までは女の子や中年女性のオシャベリに煩わされることが多かったのであるが、このごろはそれに男の子のオシャベリが加わったのである。大声でとりとめもないことを話している。話の内容は身辺雑記的で、いわゆる「井戸端会議」風なのである。自分たちだけしか意識になくて、まわりの人間に話を聞かれていることは完全に意識にない。大声が他人に迷惑だという意識、他人から「くだらない話をしている」などと思われるかもしれないという意識が毫もないのである。


 電車の中でかはともかく、最近の若い人は確かにくだらないオシャベリをしている事が多い。しかし、それは「最近の若い人」に限った話だろうか?街に出ればわかることだが、くだらない話をしている若者も多いが、それと同数、くだらない話をしているおっさんがいるのだ。
 だいたい「くだらないオシャベリ」というのは社会においては「コミュニケーション能力」と訳されたりする。
そもそも「飲みニケーション」などといってくだらないオシャベリに社会性を付与してしまったのは他ならぬおっさん達自身なのだ。
 とにかく彼の「若者嫌い」は社会的な基準を超えて盲進し、

電車の中でお化粧

 あるOLから、こんな話も聞いた。その人の職場に新人が入ってきたが、その新人は冷房が寒いと言って、オフィスでドテラを着て仕事をしているというのである。これも公私の区別がなくなってしまった人間の例と言えるであろう。


 に至っては、苦笑するしかなくなってしまう。でんこちゃんに謝れ。

 このように、その本の印象を決定づける序章において、すでに偏見を植え付けられた読者は彼の言う「父性」を明確に捕らえることは不可能となってしまっている。いくらその後の章で心理学的な理屈を押し付けても無駄である。

 本来、この本の目的は「父性の復権をもって、これからの人間を正しい方向に育てていこう」ということであり、それを伝えるべき対象は「これから父親になるべき世代」であり、それはすなわち「今の若い人」である。それなのに、彼らを敵に回してどうしようというのか?
 むしろ、現代社会でいちばん力を持った団塊の世代の誤りを指摘し、同じ轍を今後の人に踏ませないようにすることがいちばん重要なのではないか?

 目的を見誤ってしまったそれらしい本というのは、存在感があるだけに、ただ迷惑な存在である。
Return バカボン