憂国日記
2011年10月


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11/10/11

政府や東電に対して何を求めるべきか

園田政務官に、ジャーナリストの田中昭と寺澤有が、飲用ではない水を飲むことを、結果として強要してしまった事件について。
 結論じみたことを言ってしまうと、いくら後から「現場に記者が入ることが本丸だった」と言い訳をしても、そもそも「安全というなら飲め」という理屈を展開して、相手側にとって有利な条件を提示してしまい、それを実行されてしまった以上、田中と寺澤の負けである。飲まれて困るなら、最初からそんな要求をせず、報道側の福一への立ち入りを、粛々と要求すればよかったのである。
 園田政務官の水飲みをパフォーマンスと卑しめるなら、水を飲めと要求したことそのものは田中・寺澤のパフォーマンスであり、仮に私が田中・寺澤に最大の肩入れをするとしても「飲めと言う方も飲んだ方もダメだった」と評価をするのが精一杯だ。

 そもそも、この件は問題の始まりからして、筋の悪いものだった。
 寺澤は発端となった田中と東電側のやり取り

10日、東京電力の単独の記者会見で、ジャーナリストの田中昭さんが「我々、報道機関は福島第1原発の現地取材を拒否されている。本当に『低濃度』か確かめようがない」と追及。東京電力側が「(放射能汚染水は)口に入れても大丈夫」と答弁したことを捉えて、田中さんは「それならば、実際にコップに入れて飲んでもらいたい」と迫った。しかし、東京電力側は「飲料水ではないので……」と渋った。

 と、書いている。
 しかし、田中が提供しているUSTの動画(田中の質問は8分頃から)を見ると、田中の側から「飲めるのか?」と質問し、それに対して東電側がもののたとえとして、飲用水ではないと前置きをしながらも「飲める水準と同程度に、放射性物質が含まれない」との旨を回答している。
 そして田中は現地に報道陣が入れないことが問題であると語り、その直後に「飲めると言うなら、飲んでもらわないと信用できない」と述べている。この文脈を園田政務官に水を飲むことを迫った寺澤も踏襲している。
 つまり「飲めるというなら飲まなければ信用できない」と強弁し、「水を飲めば信用できる」という文脈を作った責任はひとえに田中・寺澤の側にあるのであって、東電や政府の側ではない。
 園田政務官が水を飲んだことに対して「水の検証の問題を、パフォーマンスの問題に矮小化している」と不満を持っている人もいるが、それも田中・寺澤は結局「記者を現場に入れてデータを検証できるようにするか、水を飲むかで信頼を示せ」と要求してしまったことの問題だ。
 前者の第三者である記者などが現地に入って、取材や事実確認をできるようにする必要があることについては、全く同意である。少なくとも「東電も政府はもちろん、原子力保安院も信用できない」のであれば、データの透明性を確保するためには、原子力保安院ではない第三者を入れる必要がある。
 しかし、それだけになぜそこに「安全なら飲め」という、よく分からない主張が入り込んでしまったのか。そこが私にはさっぱりわからない。「福一に第三者である記者たちを継続的に入れるのか、もしくは水を飲むのか」の二択でいいなら、俺が園田政務官の立場だったとしても、水を飲んで終わりにするほうが簡単だと考えるに違いない。

 勘違いされたくないのだが、この記事は決して田中・寺澤を批難することが目的ではない。
 目的は、この一連の過程において、私達が「本当に政府側に要求するべきこと」を提示することだ。
 今回「水を飲むことを要求したこと」は、2つの意味で間違っていた。
 1つが「水を飲んだことは、安全であることの証明にはならない」ということ。
 先日、えびすのユッケを食べて亡くなった方が5人となったが、一方で同じユッケを食べながら、なんら体に異変を生じなかった人もいるのだ。飲み食いしたものが体に与える影響を測るのに、人体そのものを使っても、個体差が大きすぎて、データとしては全く役に立たない。逆に実際に危険な物質であっても、それを口にして影響がでなければ大丈夫なのだと、むしろ安全性の議論を誤った方向に推し進めてしまう可能性がある。
 もう1つが「政府側に対して安全に対する誠意を求めたこと」である。つまり、「あなたが騙しているのでなければ、当然それを飲めるはずだ」という論旨である。
 とはいえ、そもそもデータの透明性や検証性を求めるのは、むしろそうした内部の人間の恣意によって、検査結果がごまかされたり、必要なデータが出なかったりすることを問題視するからこそ、データの透明性や検証性が重要なはずである。
 ならば政府や東電に対して「誠意を示せ」と迫ること自体が、逆に内部の人間の恣意性が、データの提出や信用性に大きく関与してもいいのだと認めてしまうことになる。その人が信頼に足るか足らないかに関係なく、データが検証可能な形で開示されること、それを実現するために記者による取材や検証を認めることこそ、田中・寺澤が本来求めていたはずのことではなかったのか?

 本当に必要な要求は、それが本当に安全(この言葉は決してゼロリスクを指すものではない)かどうかを提示出来るだけの検証可能なデータを要求することだし、また、危険だとすれば危険が発生する経路を見極めて、適切な対策を行うことに繋がる要求である。
 対策の例としては、牛肉から基準値を超えるセシウム検出された問題があったが「事故直後に天日干しにされていたワラが原因であった」ということが発覚し、それ以降は大きな問題は発生していないことがあげられる。(ちなみに、こうした原因追求に対する真摯な態度を「牛にセシウムが出たのに、豚や鳥にセシウムが出ないはずがない。政府は隠蔽している」などと、問題を単純化して、対策を嘲笑ったのが、あの上杉隆である)

 今回の事故に対し、政府や東電に対する態度は2つあると考えている。1つが政府や東電に安全や安全を証明して欲しいという要求する態度だ。私は現状、この態度を取る人が多すぎると考えている。といっても、かつての安全神話のように、政府が安全だといえば安全だと思う人は、事故以降ほとんどおらず、「政府や東電は信用できない」という世論が盛り上がっているのだから、そんな人は少ないのではないか? と思う人もいるだろう。
 しかし、「信用できない」と口にする人たちは結局は「信用」という軸で物事を考えている以上「信用する」である安全神話とはコインの裏表に過ぎない。しかし、重要なことは、政府や東電が信用できるか否かでは無いはずだ。
 そしてもう1つが、政府や東電には、価値判断を挟まない生データや、透明性などを求める態度である。担当者が水を飲むような誠意のある人間であろうとなかろうと、第三者による監視の目を入れることで、常に問題点を検証可能な状態に置くことを求める態度である。
 本来、田中・寺澤が求めたのは後者であったはずだ。しかし、何故かそこに前者の態度である「誠意=信頼できることを示せ」と要求してしまった。

 田中・寺澤が要求するべきだったのは「データの検証可能性」であり、そのために現地に記者という第三者の立ち入りを認めさせることである。
 昨日、福島第一原子力発電所が、報道陣に公開されることが決まったそうだが、立ち入ることができるのは大手メディアだけで、行動も大きく制限される。たぶん現場の責任者に話を聞いて、構内をクルマでぐるっとめぐるバスツアー形式が関の山だろう。
 田中・寺澤にはまだやるべき仕事がいくらでも残っている。今回は道を外れてしまったが、元々の論拠に立ち戻って、進むべき道をじっくりと、焦らずに進んでいただきたい。

(似た様な事を2回書いてしまっているが、ブログ用の記事なので、そのまま出しました)



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