憂国日記
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ご意見ご感想はメール、もしくは掲示板までよろしくお願いします。

著書、絶賛発売中:『若者を見殺しにする国』(朝日文庫)

各日付ごとにnameアトリビュートを設定しています(日付の上部に薄い灰色で表記)。リンク等にご利用ください。


[#041028]

04/10/28

昨日のPSPとDSの話は、PSP価格発表の前に書いたので、PSPの価格を見て、再びこの話を少しだけ。
 一応、本体価格19,800円(税抜き)になってますが、実質的にはバリューパックの26,040円(税込み)が定価でしょう。
 一部のマニアはスペックから逆算して「安い」などと言ってるけど、普通に高いよね。DSと並べた場合に。
 ソフトのラインナップを見ても、PS2のソフトをアレンジしただけのものを、ほぼそのまま持ってきてしまっている事に、現在ゲーム業界の苦しいお台所事情を見てしまうのは俺だけか?
 まぁ、現実にはDSも「タッチパネルを生かした」初期ソフトウェアが出まわった後に、いかに「タッチパネルを生かした」などと称されなくなるようなソフト、つまり、操作体系として、タッチパネルが自然にとけこんだソフトを出して行けるかが正念場なんだけど。ここをうまくしないと、PSPに市場をさらわれる危険は常に残るね。

コトノハのシズクさん経由で、艦砲射撃甲
 面白いねこれ。まぁ、俺のマックが古いので、ちゃんとスピード出てないのは個人的な問題として。

 ゲーム自体に問題点があるとすれば、基本的にうまく敵に弾を当てるのがキモというゲームシステム上、ボスキャラとザコキャラ間での強さの逆転が起ってしまってること。ほぼ直接射撃が当たる耐久力が高くてデカいボスキャラと、地形の影に隠れた耐久力が低くて小さいザコキャラでは、後者の方が強く感じてしまうという点。どうしてもボスキャラは存在感を示すためにデカくしたいけど、デカすぎると当たりやすさが増してしまう=弱体化だからね。
 解決法はさほど難しくなくて、ボスキャラに小さめの固有の弱点(プレイヤーにちゃんと分かるように)を設定するとか、砲弾自体の当たり判定を大きくする(着弾後の爆炎でもダメージを与えられるようにするなど)とか、いろいろあるからね。
 ただ、この辺は「コンボ」(連続で弾を当てると、スコア増大)と相反しかねないので、その辺は要考慮。個人的にはコンボはいらないと思う。むしろ「bazz」(敵弾をギリギリで避けるとスコア増大)の方が面白いかも。

小田嶋さんのブログ(いつの間に!!)経由で、悲しい本
 ナカタニンの表紙だけでお腹いっぱいですが、目次でゲロ寸前リーチ状態。
 ZAKZAKの記事を見ると《高塚さんはキス魔(中略)普通だと、セクハラになる。ところが、そうならないところに、高塚マジックがある》という記述があり、多分ナカタニンが言ってるんだろうが、何のことはない、高塚マジックの仕掛けは単なる権力で、実際にはセクハラでしかなかったことが、今さらながら明確に。
 まぁ、ダイエーという沈没船から、真っ先に女子社員というネズミたち(軽蔑の意味ではないので念のため)がどんどん逃げ出しているという状況ですな。逆にダイエーが沈没しなければ、このおっさんは一生勘違いしたままだったのかと思うと、頭が……
 ちなみに、件の小久保の騒動もこのおっさんが原因らしい。

最後に、イラクの日本人人質の件について。
 小泉は「また」日本人を見殺しにしました。3度目です。前回、前々回は運良く死者は出ていませんが、今回は大変危険です。それだけです。既に1度目の時に自分の考え方はすべて語っており、今さら書くこともありません。
 そして今日、また小泉は日本人を見殺しにするのです。

いつもの書評を忘れてた。
菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書.2004

 帯で大きく「武士道は大和魂ではない!」と謳う本書は、つい右翼的な事を想像してしまいがちな「武士道」という言葉が、実は武士という身分を持つものが私的な意味において強く生きるために作り出した思想なのだという。人を斬ることも、交渉することも、そして死ぬこともすべては自己の名をあげることや主君に仕えるといった、ごく私的なもののために行われており、それを支える思想こそが武士道だった。
 ところが、この武士道という言葉が、明治時代に大転換を遂げる。
 明治維新によって武士の時代が終わり、国家、天皇の時代が始まると、今までのような私的なもののために戦う武士ではなく、国というおおやけのもののために戦う軍人を欲した。諸外国と戦わなければならない状況下で、兵器と統制を持った近代的な軍隊が必要となったからだ。そのために、武士の主君を天皇にすげ替えた。
 しかし、天皇は主君のように身近な存在ではなく、また武士の時代には存在自体を忘れられていたため、日本という土地でで共に長く暮してきた天皇という関係性でしかない苦しさを「「日本固有ノ修正」たる「大和心」」という言葉をもって、我々は日本人や大和民族の一員であり、「「武士道」もまた、民族全体の精神「大和心」の一部」と言いくるめ、見事に公と私を逆転させたのである。

 そこから先を自分で考えるに、WWW2後の民主主義国家である日本においては、本来、公は私のために存在するのであり、公は私同士の相互扶助によって成り立つことが前提である。その点では、公私が再び逆転しなければならないはずだが、どうもそうはなっていないようだ。
 そうした点で、今一度、あれ程大がかりなパラダイム変換をなしとげた明治維新とその周辺を振り返り、本当の民主主義達成のための手掛かりにするのもいいだろう。
 ただしそれは、著者ではなく、我々の仕事である。


[#041027]

04/10/27

武田さんのデザインの話を読んでいて、ふと思いついたのがソニーのPSP任天堂DSね。
 デザインだけで見れば、完全にPSPの勝利だろうけど、ゲームとしてみると、完全に任天堂DSの勝利です。これはもう発売前から誰が見ても3DOが売れないことは分かっていたぐらいの明確っぷり。
 まぁ、PSPもサードパーティの力でそこそこ売れるだろうし、スクエニあたりが絡んでくる可能性(FFはPS2 or 3で、DQはPSPでぐらいの住み分けはあり得る)もあって、長期的には絶対とは言えないけど、世間のゲーム観が完全に自分と離反しないかぎりは、PSPは2位を抜け出ることはない。
 比喩としては、食器洗浄機と電子レンジの差が適当か。食器洗浄機がなかなか普及せずに、電子レンジが一気に普及したのは、「なにか新しい事ができるかも」という期待感によるという説。実際にはごはんの温めにしか使わないとしてもだ。
 ソフトウェアをみても、DSにはDSならではのソフトが並ぶのに対して、PSPはPS2でもできるようなゲームばかりが並ぶ。ゲームという「楽しみ」を提供するメディアにおいて「(他の)アレでもできそう」という現実感は致命的だ。
 まぁさぁ、開発時にはPSP側にも「任天堂が新型携帯ゲーム作ってるらしいぞ」ぐらいの情報は入ってただろうけど、まさかタッチパネルだとは思わなかっただろうから、PS2のダウンスペックをそのまんま発表しちゃったり、またそれを売るしかない状況なのは仕方ないのもあるんだけど、それでもどっかに別の突破口はなかったものか。一応ワイヤレスでLANが繋げるから、PS2の外部モニタ的な部分でなんとかするしかないだろうね。でもそれはDSも付いてるしなぁ。
 あと、DSはタッチパネルばかりが注目されるけど、マイクの存在も忘れちゃいけない。これでDSに『たけしの挑戦状』が移植できる……というわけではなくて、現在の音声認識技術を考えれば、これもまたいろんな事ができそうだという印象がある。
 結局、ゲームは遊ぶものなんだから「より遊べそう」なものが売れるのが当然であって、PSPはそのあたりのツメがまったく足りなかったなぁと。
 最後に、DSについての素朴な疑問。タッチパネルは当然傷がつきやすいし、長期使用で押し痕が確実にできるんだが、その点に対する配慮はあるのか?パネル部だけ簡単に交換できるとか。あと、タッチペンは確実になくしそうだな。ああ、そのためのストラップ付属か。

3K新聞。

▼相次ぐ台風と重なって日本は災害列島になった感じがする。平成七(一九九五)年一月の阪神淡路大震災の時、当時の村山首相は白川ならぬ“平河夜船”だったとジョークめいた批判を浴びた。発生から二時間もたった七時半に秘書官は初めて首相に一報を入れた。
(中略)
▼それに比べれば今度の対応は素早いが、惜しむらくは小泉首相の“出足”だ。

 今回の対応は本当に素早いんですか?
 そのわりに救援物資が届かないという報道が相次いでいるんですが?
 つか、災害規模も全然とはいわないけど、だいぶ違うしねぇ。
 産経は災害を政治的主張に利用しようと必死だな。

いつもの書評。今回のできが悪いのは自分でも分かってます。一時間弱であわてて書いて、推敲もできなかったので。メディア・リテラシー 岩波新書 菅谷 明子 (著)

 最近よく耳にするメディア・リテラシーという言葉は、日本では今だ現実的な教育としての地位を得ていない。その点は、この本で紹介されるイギリス、スイス、アメリカにおいても、程度の差さえあれど、同様にある。
 子供が興味を持っても、父母がその必要性を認知しない。保守的志向の政権によってカリキュラムから除かれそうになる。教える側が生徒に正解を押しつける。そのような現状はどこの国でも変わらない。
 しかし、そうした中でもリテラシー能力の向上を考える人たちは努力を続けてきた。
 ただ、メディア・リテラシーそのものが必要なのは間違いないが、メディア・リテラシーが持ちうる文脈によって、この言葉がまったく違う意味を持ってしまう可能性について指摘しておきたい。
 メディア・リテラシーという話に自己責任ということを組み合わせた場合、本来、メディア・リテラシーは民主主義国家を運営するうえで重要なスキルであるが、リテラシー能力を持つことを個人の責任と置き換えてしまえば、「報道に騙されるのはリテラシー能力を持たないものの自己責任であり、報道側は倫理的に問題のある手法で報道してもいい。」という論理が説得力を持ちかねない。PR会社のプロモーションもこうした論理の元に正当化されるだろう。
 とすれば、実はメディア・リテラシーという言葉そのものもリテラシー能力によって批判されるべきだということが見えてくる。メディア・リテラシーがメディア・リテラシーによって批判され続ける限り、民主主義が別の何かに置き換えられる事はないだろう。ただし、それは決して楽観的な観測ではない。
 メディア・リテラシー教育は正しい教育であっても、決して万能ではないし、いつでもに一部の人間に利用される可能性を持っていることを常に忘れてはならない。


[#041025]

04/10/25

なるほど、これが連中の本心か

規制にもさまざまな種類がありますが、「社会に与える影響」を抜きに「表現の自由」を振りかざすのは果たして文化活動なのか、そのあたりの線引きは必要と考えます。
(中略)
 この人たちの声が日本の将来の世論を左右することになれば、外交にも影響を及ぼすものになりかねません。
表現の内容が社会に与える影響を考えず、しかも両国間で非常にデリケートな話題がはたして「創作表現」と言えるでしょうか? 私は言えないと思っております。

 くだらない。死ぬほどくだらない生き物だ。
 社会に与える影響を抜きに表現の自由を振りかざしてはいけないというなら、まずお前が口を閉じろ。口を閉じ、目を閉じ、感覚を経ち、五感のすべてを閉ざせ。息もするな。二酸化炭素の放出は社会に影響を与える。動くな。空気振動が影響を与える。死ぬな。死ねば葬式をしなければならず、影響を与える。今すぐ消えろ。社会から消えろ。残滓を一切残さず、誰の記憶にも残らず消えてくれ。ほら、とっとと消えろ。

 以下、上のを書く前に書いたやつをオマケで掲載。

 いかなる表現においても、社会に影響を与えない表現などあり得ない。
 ならば、何らかの表現に対して「社会に与える影響を考えろ」と弾圧を行うことは、結局「俺にとって都合のいい意見だけを認める」という意味にしかならない。
 だいたい、「この人たちの声が日本の将来の世論を左右することになれば、外交にも影響を及ぼすものになりかねません。」って、国民が自分の意見をもって外交に影響を及ぼすことの何が悪いというのか。一部の痴呆議員……おっと売国奴「のみ」が外交に影響を及ぼす方がよっぽど悪いに決まってるじゃないか。
 しかし、本当になんなんだろう?この特殊な生き物どもは。

ポンジュースのアイスってのを見つけた。果汁は30%だった。
 アイスだと果汁100%じゃなくても、ジュースと称していいんだ。初めて知った。

浜崎まさひろ祭り会場


[#041024]

04/10/24


[#041021]

04/10/21

本宮ひろしは、連載再会の際には「日本」とか「中国」とか「南京」って書くのをやめて、「日木」「仲国」「軟京」ってやればいいんだよ。昔の野球ゲーム方式。
 「南京大虐殺」は「軟京犬屠殺」、「百人切り」は「首人切り」、「強姦」は「強嬲」。……元の言葉より醜くなっているのは気のせいか?

昨日読んで、いたたまれない気分になった2chのレス

60 名前:58 メール: 投稿日:04/06/19 13:26
名古屋市吹上の青柳店行って来たけど、かなりヤバかった。肉はカチカチで寿司が置いてある厨房は臭い。
自分は4時半に来たけど、今日一番の客のようだった。
うわ食いづれーと思っていると、中国人の観光バスが4台も来て店の9割の客はチョンだらけ、
それに壁の張り紙には中国語で書かれてるものまであった。(なんとかかんとか謝謝って)
思うにこの店は観光ルートに入ってるからこそ潰れないんだな、と思いました。

日本人は2、3席くらいしか居なかったし。しかし、なんかこの店を観光ルートにされると日本人として恥ずかしい。
日本にはバイキングといえど、もっと良い店があるのに。チョンにこれが日本の飲食店かと思われると、もどかしい。
だって、奴らは満足してる様だったもん…。だからこそもっと良い店に案内してやれよと思いました。ビール不味いし。

究極的に悪いとは言わないけど店を閉じた名古屋市の野並店は本当に良かった。
すたみな太郎は名古屋に店を増やして欲しい、名古屋市内の店はここだけじゃないか…。
長文愚痴すいません。

 いったい、何をどう突っ込んだらよいのやら……。

 「チョン」という言葉の意味を分かっていないことは、この際見逃しましょう。これならこいつがバカなだけだ。
 問題は「チョン」という侮蔑用語を使いながら、内容的には決して中国人を積極的に侮蔑している内容ではないということ。さらには「奴ら」というように、基本的な部分では彼らを侮蔑をしているということ。
 つまりは、民族的侮蔑という素朴なベースが存在し、その上に2ch文化的な「チョン」という言葉のいい加減な用法が乗っかっていて、それを当人は何らおかしく感じていないということ。
 これはヤバい。差別や侮蔑をしているという自覚がない。

 そんないたたまれない気持ちになった人が多いのかは知らないが、「チョン=中国人」という部分に対するツッコミは、この後のレスに全くない。とはいえ、60自体にレスしている人はいるから、本当に知らないのかも……。

蓮池夫妻曰く

「拉致問題はまだ解決に至っておりません。拉致被害者のご家族が高齢になっている中、1日たりとも猶予なりません。世論が風化しないよう引き続きご理解とご支援をお願い申し上げます」

 「1日たりとも猶予なりません」この言葉を真剣に取らない日本人が多すぎる。
 私は拉致問題発覚時から拉致被害者の早期探索、早期帰国を実現すべきだと主張してきた。だから、政府間の約束を破り、5人を再拉致した事を「その他の被害者を見殺しにした」と書いたし、食料と交換でもなんでも拉致被害者の帰国に全力を尽くせと書いた。(後者は書いてなかったかも……)
 ところで「拉致問題の解決」とは何であろうか?北朝鮮が何から何まで謝罪することか?拉致被害者が全員日本に帰国することか?私は後者こそがまずは最優先事項であり、前者は時間をかけて解決すればいいだけのことだと考えている。
 ところが、拉致問題を自分たちのために利用したい一部議員(拉致議連)や国民(ブルーリボン軍)は、前者の事ばかりにかまけて、拉致被害者本人の事なんかまったく気にしていない。彼らの口にする「拉致被害者」とは、北朝鮮攻撃というオナニーに必要なズリネタでしかなく、生きた拉致被害者当人ではない。
 ジェンキンス問題がこれほどまでに後回しになったり、今だ「死亡」とされた拉致被害者の調査(追加発表された拉致被害者候補などはいうに及ばず)がほとんど進んでいないのは、そういうことである。

 拉致議連やブルーリボン軍に聞きたいんだが、もし北朝鮮側が「死亡とした拉致被害者が実は生きてるのだが、死亡と言った責任を問わないなら帰国させる」と言った時に、このバーターを飲むことができるのか?できないのなら「北朝鮮による拉致被害者の生存と救出を信じて」なんて二度と抜かすなよ。


[#041019]

04/10/19

件の書評。原克『悪魔の発明と大衆操作』。

大衆操作と(・∀・)ラビィ!!

 「大衆操作」という言葉を私が耳にした時に問題だと感じるのは、さも何らかの政治的意図を明確に持った主体がメディアを独占的に利用し、一方的な主張を喧伝することによって「のみ」大衆操作がなされるという誤った印象を読み手に与えることである。
 確かに、ナチスはラジオやTVといったメディアを利用した。しかし、ナチスの意図だけで大衆操作が行われたわけではない。操作される大衆側も、大不況という現実から逃れるために、アーリア人至上主義という甘い理想にすがるために、自ら望んで操作されたのである。

 ところで今「(・∀・)ラビィ!!」が2ch界隈で流行している。「(・∀・)ラビィ!!」とは「きみのためなら死ねる」というゲームの公式サイト(*1)で流れる音楽の事である。その奇妙なハミングとノリのいいメロディーがウケている。
 このメインのハミング部は一定の4つ打ちタンギング、これの3番めにアクセントをつけたリズムであり、文字で表記される歌唱部ではない。しかし2ch界隈ではこれを「ヌヌネノ」と表記する。それ自体は文字表記が主体のネットでは仕方のないことであり、表現としても妥当であろう。
 ところが、このブームに乗った人たちは、これを再び歌う時に「ヌヌネノ」とカナを読むかのように歌う。
 公式サイトの音楽が聴けるのにも関らず、加工された情報であるヌヌネノという表記にしたがって歌うのである。

 けっして私はメディアによる大衆操作という事からズレた話をしているつもりはない。この事例において、歌う側は多数の仲間との同調のためにあえて、4つ打ちタンギングではなく、ヌヌネノという表記を歌う事を選ぶ。
 情報の一方的な受け手である消極派ネットワーカーが、意図的に一次情報を無視し、加工された二次情報に頼り、そのネット由来の発信能力を利用し、増幅装置として自ら選択的にそれを再送信する。
 彼らは、本に出てくる「自分のラジオ受信機を窓辺に置き、ヒトラーの演説を最大音量にして流すナチス党員」と同じ機能を果たしているといえる。
 メディアの特性が双方向だからといって、大衆操作が行われないわけではないのだ。

*1 http://kimishine.sega.jp/


[#041017]
04/10/17

clawさんの所の「集英社と本宮ひろ志を恫喝した『桜ちゃんねら』議員の正体」

自転車の鍵をなくす。
 自転車屋にえっちらおっちら担いで行ったら簡単にはずしてもらえた。
 「ああ、あんな風にやると簡単に外れるんだなぁ……」。
 みなさん、大切な自転車には付属のロックのほかにも、追加で錠をつけておきましょうね。

先日、六本木ヒルズでナマクラだかマナカナだかいう長官の映画を見てきた。
 感想としては、まずはパンチカードのシーンで「ああ、カート・ヴォネガットはこういう世界の空気を描いているんだなぁ」と思った。日本だとそういう仕事はあるんだろうか?敗戦日記は有名だけど、いまそういうものを書ける作家はいるのか?まぁ今だと、書いてもどこぞの痴呆……おっと地方議員先生方に出版を差し止められちゃうんだろうなぁ。
 アメリカの場合はさ、今でも戦争やってるから、そういう空気が分かったり、実際に戦争をしている(指揮している)人に話を聞けたりして、自身の行為を省みる事も可能なんだろうけど、すっかり戦争がなくなってしまい、変な英雄憚みたいな幻想ばかりが増大する日本では、なかなか自身を省みる事もできなくなってしまっているなと。
 前々から言っているとおり、日本はまだ戦中世代が生きているうちにハッキリとWWW2を総括する必要があったよな。
 あと、この映画自体のマクナマラにほのめかす「謝罪」とは、ベトナム戦争に対する謝罪であり、WWW2ではない(もちろん当時のマクナマラにWWW2全体に対する責任などありはしないのだが……)。この点をもって、私は12番目の教訓に「勝った戦争は正しい、負けた戦争は誤り」という一文を付け加えてみたい。戦争というものは、実は戦争を行った国の国民自体を「正しい国民」と「誤った国民」に振り分ける力を持っている。
 「負ければ戦争犯罪人だ」ルメイのこの言葉は極めて正論だ。

いつもの書評。本日は『魚河岸マグロ経済学』上田武司。

 「やはり、マグロは日本人の食文化を代表する魚なんです。そのマグロが、ここに来て、世界中のビジネスの対象になっているということを、日本人があまりにも知らなすぎたと思うんですね。」
 築地のマグロ仲卸「内藤」主人の上田武司はそう言う。

 マグロは魚の一種ではあるが、その中で本マグロと呼ばれる「クロマグロ」は他の魚とはまったく違った経済的意味を持つ。それは日本がクロマグロを極めて高値で買うために、世界中から日本にクロマグロが集まってくるということだ。冷凍技術の発達により鮮度を落さずに冷凍でき、市場を見極めた上で出荷されるし、生のマグロが空輸で送られて来たりもする。
 そのようにマグロが世界的なビジネスとして取り引きされる中、どうも地元マグロ漁師の意識は目先の高値にばかり行き、「売る」ということを忘れてしまっている。
 漁師は自分たちの釣り上げた魚を現金にするために、自分たちでは食せず、すべて築地に送り込んでしまう。だからマグロの値段には敏感でも、味ということに執着しない。昔ながらにマグロを釣り上げて、のんびり沖まで戻ってくる。その間に身がヤケてマグロの価値が落ちてしまう。
 そうした状況で日本の商社が莫大な資金をもって、しっかりした設備を整えた船を世界各国に送り込んでマグロを買い付けている状況に、地元漁協がいつまで対抗していけるというのか。

 上田の視点はマグロの漁場から小売りまで、まさにマグロをめぐるすべてを俯瞰している。
 自身の仲卸という立場ももちろん、大間の漁港に出向き、顧客の店を巡る。マグロを扱う仲卸だからこそ、マグロのすべてを知ろうとする。
 タイトルには「経済学」の言葉が冠されているが、学問としての経済学ではなく、上田がマグロを扱う商売をやっていく中で、自然と生まれた経済学、それが魚河岸マグロ経済学である。


[#041012]

04/10/12

この際、年金加入者の電話番号が「個人情報にあたる」との理由で、社会保険事務所に引き継がれないケースが多かった。
 と、いうことにしたいんですね。個人情報という言葉を持ち出す時点でいかにも……
 原因は催促以前に年金不信、年金不信以前に不況。自営業者が中心の国保は不況の影響がいちばん出やすいしね。

利用進まぬ住基カード 本県(栃木)での普及率は0・13%
 住基カードのメリットってなあに?
 1、システム納入業者が儲かる。
 2、以上。
 「湯津上村の二枚」って、村役場の職員すら見向きもしないんだな。

「昔は子供は外で遊んでいたが、環境が変わり、今後は大人の知恵で子供に運動を与えなければいけない」
 立派な全人教育ですね。(藁
 子供なんか放っておけばどこかで勝手に遊んでくるんだから、放っとけば体力は向上する。それだけの話。でも、それだとお勉強がおろそかに。
 体力と学歴、そりゃ学歴を取るべきでしょ。
 立派な一流企業に入って、体力が衰える年齢になってきたら、高級会員制スポーツクラブに入って運動すればいいじゃん。

いつもの書評。今回は香山リカの『ぷちナショナリズム症候群』

 つい先日、産経新聞が「最近の子供には反抗期がない」と報じたが、「ぷちナショナリズム」というのは、まさに「国に対する反抗期がない状態」を意味している。自分たちをある一定の立場に押し込める「国」という存在になんら違和感を全く抱かず、従順にまでに国の求める事を自らの役割として演じ、都合の悪いことはとっとと「切り離し」てしまう。
 とはいえ、私はこれが現在の若者だけの現象だとは見ないし、さらにはここ数年で培われた意識でもないと考える。
 日本人は戦後の高度経済成長からバブル崩壊までにかけて、会社の無謬性神話を信じてきたのであり、それはまさに会社という相手に違和感を感じず、会社内部の都合の悪いことには目を向けずに切り離してきた歴史でといえる。
 戦後一貫して、日本人の社会意識というのはイコール、会社本意主義に対する同調だったのであり、ぷちナショ的な動向というのは、それがバブルで崩壊した後に、会社から社会に主軸がずれただけの事である。そして今まで日本人が会社に対して、真っ正面から見据えなかったのと同様に、社会に対しても真っ正面から見据えることはない。
 こうした点で、日本人は常に「ぷちナショ」であったのであり、副題の「若者たちのニッポン主義」というのは、少々マトを外した題だといえる。

 自分以外の他人という存在を想起できない日本人は、同じ日本人と言うだけで「御上が自分を守ってくれる」「自分の思っていることは、他人もそう思っていて当然」などと、何の確証もなく信じている。思えば、日本の9条問題に関して「日米安保でアメリカが日本を守ってくれるという幻想と、日本軍が日本人を守ってくれるという幻想の何が違うのか?」なんて話が出てきたことはない。
 自己と他者の関係性を真っ正面に捉えて見据えることだけが、ぷちナショナリズム症候群から逃れえる唯一の手段だと思う。


[#041007]

04/10/07

au、フルブラウザ搭載発表も、Web閲覧サービスは従量制。
 まだまだ京ポンの天下は続く。

消えゆく反抗期 中学生の8割「親子円満」? 精神的自立の危機指摘も
 産経は、教育基本法改正案で言うような「家族は社会の最小構成単位」という妄言に賛同するのか、子供の自立を求めたいのかどっちなんだ?
 精神的に自立していても、肉体的にはくっついとけってことか?
 つか、昔に反抗期ってあったの?その時の家族形態ってどんなのだった?
 反抗というなら、そんな産経新聞程度に求められる程度の、日の丸つけたバイクで、誰も通らないような夜中の農道になぜかある存在意義のよくわからない信号を赤信号でぶっちぎる程度の反抗じゃなくて、産経に「クソ野郎」呼ばわりされるような反抗をしないと。

アメリカの大統領選は、民主党がディーンだったらまだ応援する気にもなるんだが、ケリーじゃどうにもこうにも……
 ケリーが当選するアメリカはクズ。ブッシュ再選だったらクズ以下。

今回の書評は『戦争報道』武田徹 著
 「不偏不党」という言葉がある。
 放送法の第1条にうたわれているとされ、日本の報道メディアの建前として流通している言葉である。
 だが、誰だって今の報道メディアが「不偏不党」などではないということを知っている。
 こんな時代遅れの条文をいつまで残しておくのだろうか?

 ジャーナリズムは戦争という大きな波の中で、常に翻弄されつづけてきた。
 ジャーナリストや通信社が社会的存在である以上、現実に足を突っ込んで生きていかねばならず、決して自身の立場をも全て引っくるめて俯瞰することなどできないのだ。どうしたって何かに偏る。
 ならば、ジャーナリストではない人々は、どうして報道を「信頼」できようか?
 武田は清水幾太郎の「特殊の人は別としても、一般の民衆にとつて報道か流言蜚語かを決定することは出来ない」という言葉を引く。
 そのまま見ればまさしく「報道は信じられない」という言葉であるが、逆に見れば「特殊の人」はその報道を真実か流言蜚語かを選別できるということでもある。
 そしてその立場にいる「特殊の人」の1つがジャーナリストだ。

 確かに、国家による報道管制の意欲は強く、私企業である放送局や通信社は流れの中に飲み込まれがちになる。
 しかし、そのような流れの中でも、個人の力やネットワークを駆使し、真実に迫り、何者にも組しない不偏不党を守ろうと、精力的に取材を続ける人たちの姿を見ることができる。
 そう、あのいかにも形骸化してしまったかのように見える「不偏不党」。
 実際の放送法の第1条の2項にはこう記されている。
 「2.放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。」
 この項でうたわれたのは、実は報道メディアに不偏不党であることを呼びかけるのではなく、表現の自由を確保するために不偏不党、自立的であれということ。
 そう、放送法にうたわれる不偏不党とは、ジャーナリズムが「信頼」を得るために目指すべき「不偏不党」という理想の道を説いているのである。


・内容に対する反省点
「不偏不党」という言葉は、本を読んで俺が思い出した言葉で、
本の中には使われていない。
本の内容と、読んで想起したものとは、もっと明確に区別する必要があるな。


[#041004]

04/10/04

そいえば、野球はスト自体はいいんだけど、それで出てくる相手が買収専門中古社(!)会社ライブドアとか、単にWebスペースを無知な店舗に提供するだけで大もうけの楽天とか、そんな曰くあり過ぎの企業でいいのか?本当に?

某所で書いた書評をこっちでも掲載。3日に1回書く予定。
 お題は『安心のファシズム -支配されたがる人々- 』斎藤貴男 著

 斎藤は「自己責任論」「国旗国家」「心のノート」「教育基本法」「監視カメラ」と、人々の管理統制に繋がりうるものたちをあげ、批判を加えていく。
 ただ、このあたりは、いかにも管理統制に繋がりそうなものたちであり、この本の中身がこれだけなら他の管理統制に対して批判する本を読めばそれだけで事足りるだろう。
 しかし、特筆すべき存在は2章で、一見、管理統制と関係なさそうにみえる、改札での混雑を解消する利便性のために導入された「自動改札」や、いつでも誰にでも連絡できるのはもちろん、一種のユビキタスコンピューティングまで実現してしまった「携帯電話」といった、単純に「便利な」だけであったはずのシステムの存在の中で、人々がそれと気づかぬうちに変貌させられようとしているさまを垣間見ることができる。
 だが、せっかく広いレンジで論じたものが「支配されたがる人びと」という副題にまとめられてしまっていることには違和感がある。
 斎藤はあとがきで「独裁者の強権政治だけでファシズムは成立しない。自由と放擲と隷従を積極的に求める民衆の心性ゆえに、それは命脈を保つのだ。」と書く。
 しかし、私が斎藤の論旨から受け取るものは、ファシズムを構築しようとする権力者の姿でないのはもちろん、支配されたがる人びとの存在でもなく、ただひたすらに弱者を管理統制できるシステムが続々と産み出されている現状そのものだ。
 そうしたシステムに支配されたプチ権力者は、良心の呵責どころか、逆にシステムを順守しようという良心ゆえに、自身への批判なしに権力を行使する。2章に登場する、ただ有人改札を通ろうとしただけの斎藤に対してスゴんだ駅員の姿がその象徴ではないか。
 管理統制の意思や欲求がファシズムを実現するのではない、安易に管理統制可能なシステムの存在こそがファシズムを実現する。


[#041001]

04/10/01

さて、件の安(以下略)ジャーナリストコースの前期課題も終了したので、今日から日記を再開。掲示板に書いた分については、あとで9月の最後のところにまとめます。
 んで、コースの方は11月中旬までお休みで、気が楽になるはずだったんですが……。
 木曜の帰りに粥川さんと、ジャーナリストコースを裏で取り仕切る、影のフィクサーK氏(笑)と3人で新宿で食事をしていたところ、K氏の提案でなぜか特別な課題が増えてしまい、あんまりノンビリできないことに。
 この件の矛先は俺以外のジャーナリストコース生にも向くと思うので、内容については、まぁお楽しみに。

ついでに、安全安心なんとかのオープンスクールの方は全日程を終了。
 全日程を聴講したので、修了証とおまけのペンとペンケースをもらった。
 ペンケースにロゴが入っているとの話しがあったので、開けるまで「真っ黄色で「安心と安全なんちゃら」とか入っていたら、ちょっと使いようがないなぁ」なんて考えていたが、開けてみたら普通に紺色のペンケースで安心した。
 ちなみにペンはおしりに白色LEDが付いているのがちょっとアレゲで好み。


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