憂国日記
(1月(下旬)の日記)


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著書、絶賛発売中:『若者を見殺しにする国』(朝日文庫)

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[#020129]
02/01/29

うーん

・施設……

110 :無名草子さん :02/01/28 19:13

「田口ランディ施設ファンクラブ」

この文字を見たとたん、便所ゲタとクレゾールの臭いを連想するのは
私だけだろうか……。

 漏れも漏れも。

・アフガン復興ってなんなんでしょうか?
 とりあえず国をまとめたタリバンを追い出して、もっかい内戦をやり直すことでしょうか?
 戦争しか知らないということは、すなわち「戦争する以外の生き方を知らない」ということです。タリバンがアメリカに仕掛けた理由も、グローバリゼーションへの反発とか取ってつけたような理由をサヨは言いますが、実は「そういう外交しか知らなかった」だけの事だったのかもしれません。
 まぁ、世間の「戦争反対」という言葉を、なんの疑問も持たずに発言できる人が思ってるほど「アフガン復興」ってやつは単純じゃないって事ですよ。

武田さんにさそわれたので、「変革の世紀」のワークショップに出かけてきました。
 まぁ、番組には役に立たないだろうけど、個人的にはいろいろと今後の日記のネタ(考えさせられること)ができたので、大変楽しかったです。
 でもね、やっぱり初対面の人ばかり80人くらいいる場所で「ネットのこと」といったって、ぶっちゃけられないじゃないですか。
 坂本龍一とかが音楽やりますとか言われた時に「坂本龍一なんかきょうびはやんねーんだよボケが。平沢進使えやゴラァ。音楽の著作権の話とかも聞けて一石二鳥だぞ」とか「龍一使うなら重里も使って、インパク2002やれや(龍一参加してないけど、なんとなく)」とか「龍一に村上龍と藤波辰爾足して、ドラゴン3連星とかやれや」(そいえばこの前、藤波ドラゴンがNHKの料理番組らしきもののゲストとして非常に所在なさげに座ってました。お前、今「ちょっと、ごはん食べにこない」チックな事してる場合じゃないだろ)とか、いろいろ突っ込めないじゃないですか。
 で、自分もその場で討論したりするのがとっても苦手で、後で「こう言ったほうが良かったな」とか考えるほうなんで、まぁここでいろいろと陰口のように突っ込んどきたいと思います。

 結局「ネットとは?」と言われて、今1番問題というか、わざわざワークショップの目的らしい用語を使うとすれば「変革の節目」であろう事と言えば「ネットと現実をどこまで擦り合わせるのか」ということだと思います。(というのを、ワークショップに出席した帰りのゆりかもめの中で思いついたのよ)
 たとえば「市民」って言葉を持ちだすとするでしょ。で、するとネット上における「市民」って誰なのかと。リアルにおける「市民」というのは、決して俺のような人間のことではなくて、ちゃんとした職業を持った「ご立派」な方々が市民なのである。これは「社会=会社」という文脈における「市民」という言葉はそれを指すということ。
 じゃあ、ネットの「市民」っていうのは?今のところは「ネットに接続できる環境を持っている人たち」を市民と定義するのが一番現状に近いんだろう。しかし、これは確定していないがために容易に「社会=会社」文脈における「市民」に置き換わりうるモノである。
 ワークショップの中で「face to face」という言葉が出てきたけど、これが一番ヤバくて、これを安易にやると、単に「リアルが一番、ネットはサブ」という事になる。このような「リアル重視」のネット感がやはり現状なのだなと。俺としてはネットというのは「現実≠ネット」であることに非常に意味があって、それが唯一の救いのような気がしている。もちろん現実に繋げるためのツールであってもいいんだけど、あくまでもリアルはリアル、ネットはネットで分化して考えるべきだと感じる。確固たる理論はないんだけどね。
 要は、我々は複数の(平行進行的)社会を持ち、それぞれを活用することはできるのか?ということですな。

 続きは……多分書かない。つか、別の形で反映されるでしょう。


[#020125]
02/01/25

時事ネタを少々

・人知れず「読書ノート」を更新。
 一生懸命コメントとか考えずに、とりあえずメモっておいて、何か書きたくなったら加筆するという方針で。

・そいえば山形氏の謝罪文だけど、どうせなら1ヶ月と言わず、ずーっと表示しといて欲しいよね。裁判所命令には1ヶ月謝罪文を掲載することは明記されていても、1ヶ月後にそれを消すことは明記されてないんだからさ。

・こういう「いまいち何を改正するのか分からない改正」ってのは、大抵ろくでもない方向にしか行かないんだよね。
 というか、この発言への批判をかわすための方便でしょ。要は「国として教科書の内容に責任をもたない」って事。
 まぁ、それだけなら俺も文句ないけど、この国の場合は「歴史すべてに責任を持たない」って事にしたいがためのパフォーマンスってのがみえみえだからなぁ。そんなことだから、こんなくだらない抗議とかもあがってくるわけで。

・腐った牛乳屋の話題なんかはどうでもいいです。助成金悪用なんて、どこにでも転がってる類の話じゃん。わざわざ土付きの牛飼いがパフォーマンス抗議とかしてたけどねぇ……。あれが泥棒なら、公金たっぷり補填してもらって営業している銀行って連中はなんなんだ?


[#020120]
02/01/20

spamの話

これ最強。

・spamについて。
「あの頃」のネットにおいて「反spam」というのは「常識の1つ」でした。その根拠はこうです。
「ネットは皆の共有の財産である。故にネットコミュニティに寄与しない利用は許されない」というものでした。なぜなら、提供されるサーバーの大半が大学や各種機関がボランティアや実験で提供されているものであり、そうである以上利用者もそうした精神を受け継ぐことを求められたのです。
 故に、この頃のネットはいわゆる「give & take」の精神を前提としており、いわゆる商業利用一般が忌避されていました。ただし、商業利用であってもネットワーク利用の底辺を広げるような実験的な試み(動画のネット配信やオンラインゲーム)には比較的寛容でした。
 そしてこうした時代においては我々のコスト負担はソフトウェア、ハードウェアに関らずネットワークに幅と奥行きを与えることでした。
 そして「spamはこうしたコストを払わない」という理由で忌避されていたわけです。

 さて、それでは現在の考え方はどうでしょうか?
 すでにネットは我々の考えつかないほどの幅と奥行きを持っており、もはやそれを広げようとする行為は意味をなさなくなっています。いや、もちろんかつての意識をしっかり持った人たちによって賛美されはしますが、それは決してネット全体の了解事項ではありません。
 現在のネットは「コミュニティツールの1つ」です。我々は電話会社やプロバイダーにお金を払うことによって、誰でもネットに参加できます。思うに2chなどは、まさしくこの象徴です。「あの頃」ならば、これほどまでに大きなコミュニティ。そしてそこから発する副産物は成立しなかったでしょう。間違いなくこれほどの規模になる前に「ネットを喰い潰す」という理由で忌避されているはずです。要は、理想的に分散化されていた環境が、全体の増強によって集中化しても、問題がなくなった(故に2chはネットにおける「後退」であって、ス連は「進化」と私は考えている)わけです。

 そしてこの時代における「コスト」とは「金銭的負担」だと思われています。現在の反spam運動はこの文脈に乗っかって「我々が負担をしてまで、spamはもらいたくない」という主張を繰り返しています。これに「あの頃」の反spamの論理が乗っかって「spamerはこうしたコストを払わない」ということになり、spamへの忌避は続いています。
 でも、これはどう考えてもおかしいですよね。spamしている人間だって、電話料金やプロバイダ利用料などを払っているわけですから。「spamerは無料プロバイダを使う例が多い」という反論もありそうですが、このあたりに現在の「コスト」に関する極めて重大な勘違いがあります。
 それは電話料金やプロバイダ利用料はインターネット利用料とは違うということです。
 かつても今も、インターネットはずーっと無料です。我々は始めからコストの負担など求められていないのです。しかし、我々の支払っている電話料金やプロバイダ利用料は、それに伴うプロバイダのサーバーや帯域の増強につながり、このことによって間接的にコストが払われているとみなされます。よって、無料プロバイダを利用していようが、その広告表示による収入を得てサーバー増強等が行われれば、サーバー群(=ネット)全体の底上げにつながりますから、それはコストを負担していると言えるのです。
 結果、現在は「ネットを利用している人がわけ隔てなくコストを負担しいてる」といえるのであり、それゆえにもはや実験的価値を持たない、有料動画のネット配信やオンラインゲーム、i-mode等の排他的サービスなど「あの頃」ならば絶対に許容されないようなサービスが利用されるようになったのです。

 これらをまとめると「あの頃」はサーバーなども大学や各種機関がボランティアで提供していたために、ユーザーもボランタリー精神を持つことがネットへの寄与とされたのに対し、現在のプロバイダなどのサーバーが中心となった「商業化された」ネットワークにおいては、接続者の数が増えることがネットへの寄与であると考えられるということです。

 それなのに、なぜspamだけが今なお否定され続けるのでしょうか?
 これがどうしても分からないのです。私の目にはどうしても現在の反spam運動が極めてファナティックな自己肯定のためのイデオロギーにしか見えないのですが……。

 ご意見等あればメール、もしくは掲示板に書きこみお願いします。


[#020118]
02/01/18

100人の村なんて存在しない その2

・しまった先日書いた

この意見には完全に同意。マヌケなオリバーさんあたりはこれの後半部だけ持ち出して「暴挙」などと煽りまくっているのだけれど(笑)

 この部分、オリバーさんの意見じゃないじゃんか。
 投稿を採用したのがオリバーさんで、記事本文はk3cって人の物。スマソ>オリバーさん

・100人の村の件。
 福井さんのリターンが出てる。

概要を簡単にまとめてしまうと、この「100人の村」というメタファーのメリットとデメリットに対するヨブさんと僕の認識はほぼ同じで、ただ、そのマイナスを強調するヨブさんと、プラスを協調する僕との違いがはっきりした、というところだと思う。使い方を間違いさえしなければよく効くが、間違って害毒にしてしまう人の多い薬があったとして、ヨブさんは「大抵の人にとって危ないから使わない方がいい」と言い、僕は「いや、効果は高いのだから正しい使い方とともに普及させよう」と言っているのである。これは別に対立する立場ではなくて、相補う立場なんだと思う。

 こう、福井さんはいうけれども、これは「相補う立場」などという生易しいものではなく「双方の断絶」であると思う。

 ところで、私は100人の村という文章の具体的な数値にはほとんど価値ががないと考える。俺は福井さんが100人の村のより正しい数値を割りだすという作業をしている時に、それをひどく無駄なことであると感じていた。そもそも、この100人の村では、全世界の人口を100人とみなすという、通常では考えられないような力ワザを行っており、この時点で凄まじくおおざっぱなこの数値には論じるだけの価値はなくなってしまっているのである。正確に世界の現状を知りたいなら、細かなデータであるほどいいはずだし、それを求めるべきである。ただ、この「100人の村文書」に対して私の危惧する問題はここにはない。問題は「このような精度の劣ったデータが一種のムーブになること」にある。この文脈にこそ、私は危機感を見るのである。
 で、その答えはというと、ズバリこの文章が100人の「村」であると言うことにつきるだろう。
 100人の「村」。この「村」という単語が示すものはなんだろう?作者が単に「100人程度の共同体」という意識で「村」としたことは想像に難くはないのだが、こうした作者の意識のなさがこの文章を実に危機的な部分に陥れてしまっている。
 我々は「村」と聞いて何を考えるだろうか?戦争?貧困?世代の断絶?
 いや、我々の聞いて思い浮かべる「村」とは、みんながのんびりと暮らす、極めてほのぼのとした「村」である。私なんかはむしろ「偏屈な共同体」を思い浮かべるのだが、そんなへそ曲がりは極めて小数であろう。我々が思い浮かべるのは「ほのぼのとした村」である。
 その「ほのぼの」という言葉には「価値観の共有」「尊厳の尊重」「豊かさ」などといった幸福なイメージを持ったメタファーが隠されている。
 つまり「100人の村」という言葉を聞いて我々が思い浮かべるのはリアルな地球の惨状ではなくて、持つ者持たざる者がいながらも、みんなが同じ価値観をもって幸せに暮らしている、そんな理想的かつデタラメな「村」の姿でしかないのだ。そこには持つ者持たざる者(経済格差)の存在を問題として、積極的に解決して行こうという姿勢はなく、そうした事を覆い隠した形での心寒い現状肯定があるに過ぎない。
 たとえ、80人が標準以下の住宅に住み、70人は読むことができなく、50人は栄養不良に苦しんでいようとも、我々は同じ村に住む者同士じゃないか、仲良くやっていこうじゃないか。
 そんな悪意を持たない、それでいて極めて悪魔的なささやきが聞こえてくる。
 私が「100人の村」を持ち上げる姿勢が「持つ者の放漫」であると感じる理由はここにあるのだ。


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