4月(上旬)の日記


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ご意見ご感想はメール、もしくは掲示板までよろしくお願いします。

著書、絶賛発売中:『若者を見殺しにする国』(朝日文庫)

01/04/15

日本のフェミニズム論争はいつまでたっても成熟しないな

 ポンキッキーズにイノッチが出てるのはどうなの?ファン的には?


 ドリームキャストももはやこんな扱い
 なんてことを言ってたら、いま(14日朝の事でした)「ジャパネットたかた」でiMac売ってるよ。なんで一般のMac専門店が販売できないのに「たかた」はいいの?


 例の対山形弾劾バカ裁判の模様の詳細などを乗せた日記が冬眠日記さんでリンクされている。
 こちらの「読書日記(はせがわさん)」の日記を読むに、本当にしみったれたせせこましい裁判だと感じる。
 まぁ、小谷真理(いいなぁ、女は女として生まれた途端に「被差別者」なんだって)はヒステリックなヴァカだということで、よろしいですか?(わーい、これも女性軽視だぁ)
 しかし、山形さんも災難だよなぁ、こんな馬鹿な裁判に付き合わなきゃならんとは。まぁ、後でギャグにして文章書いてください。


 なんかこのスレ読んでて思ったんだけど、「会社」と「社会」をそれぞれ独立した別のものだと思っている人、多くないですか?
 会社というのは社会の中にあって「法人」である以上、社会に対しての義務(ちゃんと給料払うとか)があるのは当たり前であって、社会が性差の解消に動いているのなら、そのための負担(産休を与える等)は義務なんだけどね。(どうも「自由裁量」のように思っているフシがあるよな。キリキリ働かんかい労働基準局)
 もちろん、社会がその解消のために会社に対しての負担を軽減するのも義務。そうした事のために我々(個人も法人もな)が税金を払うのも義務。これがなくして何のための国家か。
 結局のところ、子供を育てることも、仕事をすることも、社会に対する義務(これを「どちら「も」義務である」と読みちがえると、とんでもないことになるので要注意。どの義務を積極的に負担するかが選べるべき)である以上、子供を育てる義務が増えれば、仕事をする義務は軽減されて当たり前。それは女性(産休・育児休暇)男性(育児休暇)ともに。
 どうも上記スレの人達は現在の労働形態(労働の義務(というよりは「会社」という法人に対する義務感)中心・社会参加の義務無視)に縛られすぎているな。

01/04/12

ゲーム論ではなくてメディア論

 今週のTV Bros誌に掲載されている「せき詩郎」氏の「格闘技VSプロレス」の記事は必見。(ちなみに使用ソフトはなぜかウィニングイレブン(サッカーゲーム)(爆))


 あれ、これソースどこだったっけ。コピペだけしてURL確認するの忘れた。多分Yomiuri On-Lineだと思うけど。
オランダ、世界初の安楽死法成立へ

 【ハーグ10日=三井美奈】オランダ上院は十日、医師による安楽死を認める刑法改正を盛り込んだ安楽死法案の採決を行う。同法案を巡っては、上院の多数が賛成しており、法案は可決され、成立することになる。同法は、今秋にも発効する。国の法律で安楽死が合法化されるのは世界初。

 同法は、十二歳以上の未成年にも安楽死権を与えた上、患者が判断力のある間に残した事前の安楽死希望に法的効力を認めた点でも、世界に類例がない。

 同法は、〈1〉患者の自発的意思〈2〉耐え難い苦痛〈3〉治癒の見込みがない〈4〉医師が第三者の医師と相談〈5〉医師が事後届け出――などの条件を満たす安楽死を行った医師を刑法上免責する内容。
(4月10日22:00)


 さて、気づいたら12時間くらい寝てしまって、日付も変わっているけどゲームの件書きます。

 今回は原点に還って「ゲーム業界はなぜ衰退したのか」という事を考えてみようと思う。

 まず最初に思いつくのが「ゲームがつまらなくなった」という事だろう。ただし「つまらない」というのは主観に過ぎず、現実に「全体的につまらなくなった」訳ではなくて、「我々がゲームに飽きた」というのが正しい表現だろう。

 と、ここまでが前回。

 では「飽きた」とはどういうことだろうか。
 現在ゲームは一週間で2、30タイトルが販売され……数字は正格じゃないけど、とにかく我々はとても選びきれないほど多数のゲームを遊ぶことができる。その全てが別々の内容なのだから、飽きるなんてことはないはずなのだが、我々はやはりゲームに飽きてきている。
 なぜならば、たとえた数のゲームが発売されようとも「ジャンル」という縛りに括られたその内容は、ほぼ同一なのである。
 RPGならば地名や舞台は異なれど「正義のヒーローが悪いやつをやっつける」という大筋は同じだし、その中でヒーローとヒロインの間で恋が生まれたり、ヒーローのために戦って死ぬ仲間がいるのもたいてい同じである。戦闘システムもおおよそ代わり映えしないし、エンカウントもうざったいし、ダンジョンには陳腐な仕掛けが施してある。そして最後の敵を倒せばエンディング。感動のクライマックスがムービーシーンで描かれる。
 あと何がある?シューティングはボスキャラを倒して終わりだし、恋愛シミュレーションはゲームの中で女の子とデートして終わりだし、レースゲームはタイムをある程度縮めたら終わり。
 つまり、ゲームというのは、そのほとんどが「目標を達成しておわり」なわけだ。

 いや、目標を達成して終わること自体が悪いと言うわけではない。しかし努力して目標を達成したところで、そのことによる見返りが全くないのである。
 もちろんゲームはうまくなる。しかしゲームがうまいところで、それにはなんの意味もない。せいぜいが仲間うちの自慢に使える程度だ。

 ゲーム以外に範囲を広げて考えてみよう。
 まずは音楽。基本的にはせいぜいカラオケにしか使えないのだが、市場の規模が違うために、一般的なおしゃべりに還元できる。また、ゲームのように努力しなくてもいいのが特徴。
 次に読書。雑誌や中身のない本(俗に言う「白い本」)であれば音楽とほぼ同じ。中身のある本を読みこなすには努力が必要だが、それに対する利益(知識)は大きい。
 車やバイク。移動手段としても使える。
 まぁ、他にもいろいろあるけど、ゲームの場合は見返りが存在しないと。
 なので最近のゲームはやたらと「コミュニケーション性」を意識した作りになっている。「友達と一緒に遊ぶ」事をゲーム性に対する見返りとして準備しているわけだ。
 ところが問題なのは、基本的にゲームというのは「勝ち負け」を競うものであって、すると「ゲーマーと非ゲーマーが一緒に遊ぶ」ということはあまりあり得ない。結局は「ゲーマー同士」で依存しあわなければならないという、自分一人の壁をこえたら、今度は「ゲーマーだけ」という壁にぶつかることになっている。

 いったんここで最初に戻す。
 我々が「ゲームに飽きた」とはどういうことだろうか?
 つまり、ゲームが同じことの繰り返しで、努力に見合った見返りがなく、一緒に遊べるのがゲーマーだけだという状況だから飽きたのかと。
 いや、それは違う。そこに着地させることもできるけど、もうちょっと違う着地点がある。それは「我々はみんな娯楽というものに飽きている」という着地点。言い換えるならば「もはや娯楽という幻想を信じていない」という点。

 俺が最初にゲームについて書こうとしたときに、結論として書こうとしたのは「ゲームがつまらなくなったのではなく、我々がゲームに対してあまりにも保守的になりすぎているのだ」というもの。
 しかし「すでに我々は「ゲーム」だけではなく、ありとあらゆる娯楽に対して保守的になっているのではないか」という疑問がフッと浮かんできて、そしたらゲーム単体のことなんかどうでもよくなってしまった。なので今日の文章は非常に読みにくいものになってます。普段だったら適当に書いててもだいたい決めておいた結論の部分に確信的に到達できるんだけど、今回はちょっと無理。読みにくくてゴメンね。

 閑話休題。
 我々はもはや娯楽という幻想を信じていない。
 では「娯楽という幻想」とは何か。
 それはいわゆる「自己拡張性」である。
 我々はTVを見るときにはブラウン管の向こうの「自分の知らないこと」(芸能人の不倫というくだらない情報だとしても)を知るのを楽しみにしているのだし、ゲームをやるときも「自分の知らない物語」や「自分の知らない興奮」を求めるのである。本を読むときも音楽を聴くときもそれは同様だ。
 しかし、この世にもはや「我々の知らないモノ」などは存在しない。なぜなら我々はさまざまな選択肢(これが豊かさの基準)の中から好きなものを選ぶことができるし、好きではなくともTVなどに断片的に伝えられるものから、おおよそ、そのものの全体像をつかむことができる。そして、消費者中心主義の中で産み出された製品はすべてが恐ろしく似通っている(ジャンルで区分けされたゲームは、消費者の利便性(!)を考えて、作品内容そのものが似通っている)。
 最近のトレーディングカードやフィギュア集め(食玩など)がはやっているという現象は「物体そのもの」に娯楽性(「かっこいい」とか「かわいい」とか)を求めるのではなく、その物体を集めることによる二次効果(「それを持っているボク」とか「それを通じたコミュニケーション」)を求めているのだ。
 つまり、最初は「メディアそのもの」に自己拡張を求めていたが、それが大量流通大量消費により、それがかなわなくなった(全てのことを知りつくしている)今、メディアから半歩踏み出した形に自己拡張を求めていることになる。
 だからアニメやゲームなどの一番軽薄なものは「ゲームそのもの」自体を放棄して、作品自体が「半歩外に」はみ出しているものがメジャーになってしまっている。
 ちょっとこの辺を詳しく解説すると、ここ数年「萌え萌え」という言葉がいわばキーワードのように利用されているが、これはそのキャラクターそのものが好きなのではなく「ボクは萌え萌えだけど、あなたもやっぱり萌えてますよね?」という確認の意味を内包している。つまり萌え萌えという言葉は「キャラが好き」なのではなく「ボクはこのキャラが好き」という比重がキャラクターではなく「ボク」自身にかかった確認の言葉なのである。すなわち「萌え萌え」を宣言することは「同じアイデンティティ」であることの確認行為なのだ。

 で、これを「他の価値観に触れるのが怖い、自分が傷つくのが怖いという逃避行動」と取ることは簡単である。しかし、上記例では「萌え萌え」というアニメ・ゲーム分野の言葉を使ったが、全ての「娯楽」というものに同じ用途(同じアイデンティティである確認行為)の言葉は存在している。つまり現在は「全ての娯楽は逃避行動の上に成り立っている」と考えることができるのであり、逃避行動だからといってそれを剥ぎ取ることは、我々の身から娯楽を取り上げることは、社会としての自殺行為である。

 長くなったので、次回(いつだろう)に続く。
(なんか偉く大変な部分に踏み込んでしまったな。ゲームのことだけ書いておけば良かったのに>自分)

01/04/11

こんなバカにたばこを吸う資格はない

「"裏"日本工業新聞!!」さんの4月9日の日記に、小谷VS山形のバカ裁判の模様。
 女権ドキュソの定石どおり小谷側は「山形は弱者差別を平気で行う人間なので当然名誉毀損」という主張。
 つーか、俺にはこの裁判が両者間の解決を望むものには全く見えなくて、山形に「女性蔑視」というものの悪徳をすべて付与してしまうのが目的にしか見えないんですが。ていうか、図星でしょ。


 コンビニにて目撃した風景。

 小学生中学年くらいの女の子が、店員に「たばこをワンカートンください」と言っていた。
 店員は「大人の人でないと売れませんよ」と断っていた。
 女の子はいったん外に出た。
 すぐ外の車の運転席に座っている母親となにをか話していた。
 今度はさっきの女の子と、中学生くらいのその子のお姉さんが一緒なってたばこを買い来た。
 店員は外に母親がいることが分かったらしく、たばこを売った。

 以上。

 で、俺はそれを見ていて、すっごくむかついたの。
 なにがって「母親の無自覚さ」に。
 つい最近「未成年者喫煙禁止法」が改正された。
 改正された条文は以下のとおり
第一条 満二十年に至らざる者は煙草を喫することを得ず
第二条 前条に違反したる者あるときには行政の処分を
    以って喫煙の為に所持する煙草及び器具を没収する
第三条 未成年者に対して親権を行う者情を知りて其の喫煙を
    静止せざるときは科料に処す
第四条 満二十年に至らざる者にその自用に供するものなることを
    知りて煙草又は器具を販売したる者は五十万円以下の
    罰金に処す
第五条 法人の代表者又は法人若は人の代理人、使用人其の他の
    従業員がその法人又は人の業務に関し前条の違反行為を
    為したるときは行為者を罰するの他その法人又は人に対し
    同条の刑を科す
    (明治三十三年(1900)制定、2000年12月31日改正施行)
 基本路線は変わらないが、重要なのが第四条。これが従来の「一万円以下」から「五十万円以下」と大幅に拡大した。
 さらに、今までこれによる逮捕もほとんどなかったのだが、WHO絡みかしらんが、前年は現実に逮捕者も出て、業界内でも「未成年者には販売しないように」という文章が配布されている。
 そんな状況の中で、平気で子供にたばこを買いにに行かせる(しかも自分は歩いて数秒のところにいるのだ)ことが、どれだけ他人に迷惑をかけることなのか?この点に関してこの母親は全く無自覚なのである。
 まず、店員は「母親を確認している」にしても、もし仮に何かあったときに、防犯カメラに映っているのは「子供にたばこを販売している店員の姿」である。もちろん弁解はできるし通じるだろうが、現在の「反たばこ」の世論の中では「子供にたばこを売る行為」自体を不快に感じている可能性が高い。
 そして、もっと重大な「子供」だが、結局その女の子は「お母さんのお使いを果たせなかった」のである。それだけでも子供にとっては苦痛であるはずである。さらにまずいのが、そのあとに「お姉ちゃんと一緒に来たら買えた」ということだ。
 もちろん「お姉ちゃんだから買えた」のではなく「店員が母親を確認したから買えた」のであるが、子供にその区別がつくはずはなく、その子は「お姉ちゃんは買えたのに私は買えなかった」という挫折感を味わってしまう。実際おとなしそうな女の子だったしね。

 あのさぁ。別に俺は狂信的な嫌煙者じゃないから「たばこ、ダメ、ゼッタイ」なんてことは言わないよ。だけどさ、吸うなら吸うで「たばこを扱う(「あつかう」です「すう」じゃないよ。漢字が似ているので一応補足)」ということに対して責任感を持ってくれよ。その責任がもてないんだったら吸うな。迷惑だ!!
 JTも「ポイ捨て」だけではなく「子供に購入を頼まない」というマナー広告もやってください。お願いします。


 お約束のゲームの件については午後に書くね。

01/04/10

大阪闘夢

 えっと、ゲームの件に関しては、今日の追記か明日に書く。
 これは約束だ。後楽園遊園地でボクと握手。

 さて、眠いので、ちょっとした話題をばーっと書く。

 4・9大阪ドーム(TV生中継。乙葉って誰?乙武の女?)はみんなの想像どおりに藤田がIWGPを奪取して、健介(川越のラーメン店「チャーシュー力」の亭主も大っ嫌い)が豚に負ける。この結果を予想していなかったのはドラゴンぐらいか?
 しかし、これだけマット界の再編成が進んでいる現在によくもこれだけ「ちょっと前の新日勢」ばっかりを集めて試合ができたもんだ。特に復活の蝶野の周りをテンコジ&いぬ軍団が歩いていたのを見て、ちょっと涙が出た(父ちゃん情けなくて)。
 ちなみに武藤軍団(名前忘れた)はモスマンがやっぱりいい。でも馳ちぇんちぇえは邪魔。努力目標掲げてゴルフでもしてるのがお似合い。逝ってよし。
 あと、ラリアート・尻VS小結・淵がほとんど前座扱い。妥当といえば妥当。
 実際、試合自体も前座みたいなもんで、長州が出てきてちょっとラリアートだけして終わり。そりゃ威力はあるんだろうけど、観客はあんなものを見たいんだろうか?そりゃ、引退復帰の大仁田戦だったら、それでも歓迎されたかもしれないけど、試合数の多くなってきた今では、単に「ラリアートとサソリとちょっと蹴るしかできないレスラー」になっちゃってるんですが……。(それは引退前と同じでは……)

 まぁ、なんか全体的にどーでもよくって、試合もTVはつけてたけど永田VS野人以外はほとんど見てませんでした。(藤田は見たかったんだけど、相手がノートンという時点で興味半減。ちょっとチャンネル回して、気づいたら終わってた)
 つーか、ノーフィアー出せ!秋山出せ!(笑)

 最後に一言。
 頑張れドラゴン。応援してないよ。

01/04/07

17才より49才

 Yomiuri On-Lineより
「射殺を恐れるな」群馬県議長が警察学校で発言

 群馬県議会の菅野義章議長(68)が、五日午前、前橋市内で開かれた県警察学校の入校式に出席し、九十一人の新人警察官らを前に、「悪いやつの基本的人権を守る必要はない。警察官が生命の危険にさらされる場合には、けん銃で(犯人を)射殺することを恐れるな」などと発言した。

 発言は、菅野議長が来賓として述べた祝辞の中で、国民の基本的人権の問題に関連して行われた。式典終了後に菅野議長は、「(発言は)私の信念だ」と述べた。

 菅野議長は、一九七五年に県議に初当選し、現在五期目。教育と警察行政を担当する文教治安常任委員長などを経て、昨年五月に議長に選出された。弁護士でもある。
(4月5日14:17)
 悪いやつの基本的人権は守らなくてもいいそうなので、この菅野義章って悪人を射殺しちゃいましょう(笑)


 アサヒ・コムより
殺人のピーク年齢は49歳 仕事、家庭、老後が不安?

 95年から99年までに全国で殺人(未遂や予備を含む)事件で逮捕、書類送検された容疑者計6499人の年齢(犯行時)を警察庁が調べたところ、49歳が最も多いことがわかった。強盗殺人や傷害致死などの凶悪事件を加えた統計でも、49歳は17歳と18歳に次いで3番目に多い。過労死や自殺など中高年問題を扱う専門家たちは、老後への不安、仕事や家庭でストレスを感じ、人生の岐路に立つ不安定な世代であることが背景にあると分析している。

 凶悪事件が目立つ少年事件を分析するため、同庁少年課がまとめた資料で浮かびあがった。14歳から69歳までを年齢ごとに集計している。

 集計によると、5年間で殺人事件で検挙された49歳は185人で、すべての年齢を通じて最も多かった。続いて47歳が164人、48歳が160人、45歳が159人で、40代後半が目立つ。

 「49歳の凶行」が統計ではっきりするのは97年から。同年は42人で、44人だった28歳に次いで2番目だった。翌98年と99年は連続トップで、それぞれ46人、42人だ。

 強盗殺人や傷害致死などを加えた犯罪でも、49歳は5年間で214人が検挙された。17歳の281人、18歳の244人に次いで3番目に多い。少年は集団リンチで相手を死なせてしまうような場合もあるため多いとみられ、49歳の突出ぶりが目立つ。

 この場合も、49歳が目立ち始めたのは97年から。96年までは主に30代以下が多かったが、97年は46人と前年より3割増。18歳、22歳、28歳に次いで4番目となった。98年と99年は50人を超え、17歳、18歳の少年に次いで3番目だ。

 同庁としては、なぜ49歳の殺人が多いのかは分析していない。ただ、今回の統計上の49歳は、主に46年から50年生まれに当たり、年間約270万人生まれた団塊の世代(47〜49年生まれ)とほぼ重なる。人口そのものが多い世代だが、年齢別の人口比でみても、50歳前後の殺人が最も多いという研究結果がでている。(03:04)
「警察庁」の調べであることがミソですね。ひたすら「17才」ばかりを煽りたてていた連中はどういいわけする気なんでしょうか?
 とはいえ、17才の犯罪が世代別で多いのは確かですから(絶対数は別問題。戦後の少年期の犯罪者数は減少傾向を示している)、言いたがるやつは言いつづけるんだろうけど。

01/04/04

さんけえ の あほども へ

 さて「つくる会」の教科書である。
(「ゲームじゃねぇのかよ!!」と三村風ツッコミを入れた皆さん。今日はお祭りですから(笑)。ゲームのことはまた明日(この日記の予定は未定です))

 さて、タイトルを見ても分かるように今日の日記はキツネ目さん風に書こうと思ったんだけど、最適な叩き台があったので、それをつかって話を進める。

 まずは川路さんの4/4の日記を参照のこと。
「創る貝」の教科書が検定に通ってよかったですな。ただでさえ検定とか言ってるけど、検閲みたいなもんなんだから、「貝」の教科書の内容がどんなんであれ、「貝」のヤシらはそりを中学生に読ませたいんだから、つくること自体はご勝手にだし、そりを認めないっつーのだたら、そりは検閲だべ。
(引用者注 一部半角カナを全角に変換しています)
 まず「新しい歴史教科書をつくる会」というのは「新しい歴史教科書をつくる会」であって「自由史観主義を推進する会」ではないということに注目。
「教科書をつくる」とはどういう意味か、どうも川路さんはその点の理解が甘いように思える。
 いや、別に川路さんが特別そうということではなくて「言論の自由」というものを重視している人間は、つい「教科書も出版活動の一部」として捕らえてしまい「教科書をつくること=言論活動」と誤認しまう人も多い。
 しかし「教科書をつくる」というのは、言論活動とは全く別の次元の話である。
 そもそも「言論活動」をするのに、出版するのが教科書である必要はない。現に「国民の歴史」とか「国民の道徳」などという、漬け物石にしか使えないような無闇にデカい本が出版されて、書店に並んでいる。少なくとも「つくる会」の言論の自由は守られている。

 じゃあ「つくる会」がことさら「教科書」にこだわるのはなぜか。もしくは、アジア諸国の人達が「教科書化」に反対するのはなぜか。
 それは「教科書」というのが「国家政策としての「タダシイ(テストで○がつく)レキシ」を教えるもの」であるからだ。
 もちろん「正しい歴史」などというのは幻想である。歴史というのは常に主観的なものでしかないから、それが寄り集まったところで「正しいであろう史実」が拾い集められるだけに過ぎない。そしてその中から国が主観的に「どういう歴史を教えたいか」と選別することによって「タダシイレキシ教科書」というものが生まれる。まさに「教科書」というのは国家としての教育政策の基礎なのである。
 つまり「つくる会の教科書」を検定に合格させたということは「日本(という国体)はアジア諸国の開放のために一生懸命戦った」というタダシイレキシを「教えても問題のない項目」として認めたということなのだ。
 だから、それに対して反対運動が起るのは全くもって道理である。

 そもそも俺は「教科書」というシステム自体に反対である。一年間を一冊(物理的に一冊ということではなくて、同じ本を使いつづけるという意味)の本にゆだねるよりは、同じジャンルの本を何冊も読んで、その差異を学んだ方が勉強になる。
 しかし、現状が一年一冊というシステムである以上、世界的な「タダシイレキシ」と明らかに異なる「日本としてのタダシイレキシ」を教えることは、単に「無用な軋轢」を生むだけに過ぎない。

01/04/03

とりあえず前振りだけ

 Linkを更新。


 FF9購入。中古+傷物で安かったので。


 今日書こうと思っていたこと。
1、児ポ法と堂本暁子について(調査中)
2、ひろゆきが告訴された件(だいたい書くことは決まってる)
3、産経がDoS攻撃された件(書くことは決まってる)
4、先日予告した「16歳少女がチャットを通して・・・」の件(単体では書かないと思う)

 これらを比較検討した結果、今日は「5、ゲーム業界はなぜ衰退したのか」をお送りすることに決定しました。


 いやね、バイトの給料も入ったので「UFO」というソフトを買おうと、探しにいったわけ。んで気づいたんだけど、ゲームを扱ってる店が異常に少ないのね。中古はあるんだけど、新品がほとんどない。こりゃ状況だけを見たら「ほとんど中古で流通が行われている」という異常な状況なわけ。これがもし「1ヶ月以内の新作のみが入ってきて、その他はほとんど中古」という状況だったら、現在のゲームというものの認識のされ方(新らし物中心)から見て仕方ないとも思えるんだが、上記のUFOというソフトはすでに廉価版が発売されているにも関らず、廉価版以前のものが5,000円の値をつけて売られていた。要はデッドストックが発生してしまって、それの除去すら行われていない、また、仕入れ値の都合から値段も下げられないということだ。しかもこれは個人商店の話ではなく、チェーン化してる本屋のゲームソフトコーナーの話である。こりゃゲーム業界の衰退も本格的だ。

 という訳で、今回は原点に還って「ゲーム業界はなぜ衰退したのか」という事を考えてみようと思う。

 まず最初に思いつくのが「ゲームがつまらなくなった」という事だろう。ただし「つまらない」というのは主観に過ぎず、現実に「全体的につまらなくなった」訳ではなくて、「我々がゲームに飽きた」というのが正しい表現だろう。

 すまん、続きは明日ということで。

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